・・・ 今宵は大宮に仮寝の夢を結ばんとおもえるに、路程はなお近からず、天は雨降らんとし、足は疲れたれば、すすむるを幸に金沢橋の袂より車に乗る。流れの上へ上へとのぼるなれど、路あしからねば車も行きなずまず。とかくするうち夏の夕の空かわりやすく、・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・その手に乗るもんか」 女は女体を振っておおげさに笑った。龍介は不快になった。そして女が酒を飲んだりしているのをだまって腰をかけたまま見下していた。首にぬってあるお白粉がむらになって、かえって汚い、黒い感じを与えた。髪はやはりまだ結ってい・・・ 小林多喜二 「雪の夜」
・・・汽車に乗ると、そいつが俺に随いて来て、ここの蜂谷さんの家の垣根の隅にまで隠れて俺の方を狙ってる。さあ、責めるなら責めて来いッって、俺も堪らんから火のついた炭俵を投げつけてやったよ。もうあんな恐ろしいものは居ないから、安心しよや。もうもう大丈・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・とあべこべに健全を以て任ずる人達を、罵るほどの意気で立っていた。北村君が最初の自殺を企てる前、病いにある床の上に震えながらも、斯ういう豪語を放っていたという事は、如何にも心のひるまなかった証拠であると思う。文学界へ書くようになってからの北村・・・ 島崎藤村 「北村透谷の短き一生」
・・・東京から地方へのがれ出るには、関西方面行の汽車は箱根のトンネルがこわれてつうじないので、東京湾から船で清水港へわたり、そこから汽車に乗るのです。東北その他へ出る汽車には、みんながおしおしにつめかけて、機関車のぐるりや、箱車の屋根の上へまでぎ・・・ 鈴木三重吉 「大震火災記」
・・・そしてその上に乗る事も、それを拾い上げる事も出来ぬのである。そしてこれから先き生きているなら、どんなにして生きていられるだろうかと想像して見ると、その生活状態の目の前に建設せられて来たのが、如何にもこれまでとは違った形をしているので、女房は・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・こんな男は、自分をあらわに罵る人に心服し奉仕し、自分を優しくいたわる人には、えらく威張って蹴散らして、そうしてすましているものである。男爵は、けれども、その夜は、流石に自分の故郷のことなど思い出され、床の中で転輾した。 ――私は、やっぱ・・・ 太宰治 「花燭」
・・・葡萄酒のブランデーとかいう珍しい飲物をチビチビやって、そうして酒癖もよくないようで、お酌の女をずいぶんしつこく罵るのでした。 「お前の顔は、どう見たって狐以外のものではないんだ。よく覚えて置くがええぞ。ケツネのつらは、口がとがって髭があ・・・ 太宰治 「貨幣」
・・・ひとを平気でからかうのは、卑劣な心情の証拠だ。罵るなら、ちゃんと罵るがいい」「からかってやしないよ」しずかにそう応えて、胸のポケットからむらさき色のハンケチをとり出し、頸のまわりの汗をのろのろ拭きはじめた。「あああ」馬場は溜息ついて・・・ 太宰治 「ダス・ゲマイネ」
・・・まかり間違うと、鼻持ちならぬキザな虚栄の詠歎に似るおそれもあり、または、呆れるばかりに図々しい面の皮千枚張りの詭弁、または、淫祠邪教のお筆先、または、ほら吹き山師の救国政治談にさえ堕する危険無しとしない。 それらの不潔な虱と、私の胸の奥・・・ 太宰治 「父」
出典:青空文庫