・・・「はい。」と、男は額に手を宛てた。「こんなことを言ったら、妙な人だと君は思うかも知れないが――」と自分は学生生活もしたらしい男の手を眺めて、「僕も君等の時代には、随分困ったことがある――そりゃあもう、辛い目に出遇ったことがある。丁度・・・ 島崎藤村 「朝飯」
・・・それが蜜柑畑の向うへはいってしまうと、しばらく近くには行くものの影が絶える。谷間谷間の黒みから、だんだんとこちらへ迫ってくる黄昏の色を、急がしい機の音が招き寄せる。「小母さんは何でこんなに遅いのでしょうね」と女の人は慰めるようにいう。あ・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・その百姓は深い所にはいって、頭の上に六尺も土のある様子はまるで墓のあなの底にでもいるようでした。 あなの中にいて、大空も海も牧場も見ないこんな人こそは、きっと天国に行きたいにちがいないと思いましたから、鳩は木の枝の上で天国の歓喜を鳩らし・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:有島武郎 「真夏の夢」
・・・ けれども、それではいつまでも何も仕事が出来ないので、某所に秘密の仕事部屋を設ける事にしたのである。それはどこにあるのか、家の者にも知らせていない。毎朝、九時頃、私は家の者に弁当を作らせ、それを持ってその仕事部屋に出勤する。さすがにその・・・ 太宰治 「朝」
・・・ バカ野郎、ハイスイの陣だよ。」「あら、そう?」 けろりとしている。田島は、いよいよ、にがにがしくなるばかり。しかし、美しい。りんとして、この世のものとも思えぬ気品がある。 トンカツ。鶏のコロッケ。マグロの刺身。イカの刺身。支那・・・ 太宰治 「グッド・バイ」
・・・片仮名の、ハイという感じであります。一時ちかく、生徒たちが自動車で迎えに来ました。学校は、海岸の砂丘の上に建てられているのだそうです。自動車の中で、「授業中にも、浪の音が聞えるだろうね。」「そんな事は、ありません。」生徒たちは顔を見・・・ 太宰治 「みみずく通信」
一 山手線の朝の七時二十分の上り汽車が、代々木の電車停留場の崖下を地響きさせて通るころ、千駄谷の田畝をてくてくと歩いていく男がある。この男の通らぬことはいかな日にもないので、雨の日には泥濘の深い田畝道に古い長靴を引きずっていくし・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・ 文楽の人形芝居については自分も今まで話にはいろいろ聞かされ、雑誌などでいろいろの人の研究や評論などを読んではいながら、ついつい一度もその演技を実見する機会がなかった。それが最近に不思議な因縁からある日の東京劇場におけるその演技を臍の緒・・・ 寺田寅彦 「生ける人形」
・・・たとえばフランス人ジュリアン・ヴォカンスが大戦の塹壕生活を歌った、七、七、七シラブルの「ハイカイ」には全く季題がないので、どうひいき目に見てもわれわれには俳諧とは思われないのである。(改造社俳句講座第七巻、後藤 季題の中でも天文や時候に・・・ 寺田寅彦 「俳諧の本質的概論」
・・・ ジュール・ロマンという人が、フランス人の作ったいわゆるハイカイを批評した言葉の中におおよそ次のような意味の苦言がある。「俳句の価値はすべての固定形の詩の場合と同様に詩形の固定していること、形式を規定する制約の厳重なことに存している。か・・・ 寺田寅彦 「俳句の精神」
出典:青空文庫