・・・ 子供は名を六蔵と呼びまして、田口の主人には甥に当たり、生まれついての白痴であったのです。母親というは四十五六、早く夫に別れまして実家に帰り、二人の子を連れて兄の世話になっていたのであります。六蔵の姉はおしげと呼び、その時十七歳、私の見・・・ 国木田独歩 「春の鳥」
・・・兎角コチンコチンコセコセとした奴らは市区改正の話しを聞くと直に日本が四角の国でないから残念だなどと馬鹿馬鹿しい事を考えるのサ。白痴が羊羹を切るように世界の事が料理されてたまるものか。元来古今を貫ぬく真理を知らないから困るのサ、僕が大真理を唱・・・ 幸田露伴 「ねじくり博士」
・・・ 父も母も、この長男について、深く話し合うことを避ける。白痴、唖、……それを一言でも口に出して言って、二人で肯定し合うのは、あまりに悲惨だからである。母は時々、この子を固く抱きしめる。父はしばしば発作的に、この子を抱いて川に飛び込み死ん・・・ 太宰治 「桜桃」
・・・純粋とは白痴のことなの? 無垢とは泣虫のことなの? あああ、何をまた、そんな蒼い顔をして、私を見つめるの。いやだ。帰って下さい。あなたは頼りにならないお人だ。いまそれがわかった。驚いて度を失い、ただうろうろして見せるだけで、それが芸術家の純・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・男爵のその白痴めいた寝言を、気にもとめず、「新やんこそ、よくおいで下さいました。あたし、ゆっくりお話申しあげたいのですけれど、いま、とっても、いそがしいので、あ、そうそう、九時にね、新橋駅のまえでお待ち申して居ります。ほんの、ちょっとで・・・ 太宰治 「花燭」
・・・石塊を一つ蹴ってころころ転がし、また歩いていって、そいつをそっと蹴ってころころ転がし、ふと気がつくと、二、三丁ひとつの石塊を蹴っては追って、追いついては、また蹴って転がし、両手を帯のあいだにはさんで、白痴の如く歩いているのだ。私は、やはり病・・・ 太宰治 「鴎」
・・・先妻は、白痴の女児ひとりを残して、肺炎で死に、それから彼は、東京の家を売り、埼玉県の友人の家に疎開し、疎開中に、いまの細君をものにして結婚した。細君のほうは、もちろん初婚で、その実家は、かなり内福の農家である。 終戦になり、細君と女児を・・・ 太宰治 「グッド・バイ」
・・・私の白地の浴衣も、すでに季節はずれの感があって、夕闇の中にわれながら恐しく白く目立つような気がして、いよいよ悲しく、生きているのがいやになる。不忍の池を拭って吹いて来る風は、なまぬるく、どぶ臭く、池の蓮も、伸び切ったままで腐り、むざんの醜骸・・・ 太宰治 「座興に非ず」
・・・いずれが真珠、いずれが豚、つくづく主客てんとうして、今は、やけくそ、お嫁入り当時の髪飾り、かの白痴にちかき情人の写真しのばせ在りしロケットさえも、バンドの金具のはて迄。すっからかん。与えるに、ものなき時は、安(とだけ書いて、ふと他のこと考え・・・ 太宰治 「創生記」
・・・わかい女のまえで、白痴に近い無礼を働いたということは、そのころの私にとって、ほとんど致命的でさえあったのである。 どうしよう、どうしよう、と思い悩んだ揚句、私はなんだか奇妙な決心をした。「初恋の記」――私が或る新進作家の名前でもって、二・・・ 太宰治 「断崖の錯覚」
出典:青空文庫