・・・「はてね。」「さて、夜がふけてから、御寺を出て、だらだら下りの坂路を、五条へくだろうとしますと、案の定後から、男が一人抱きつきました。丁度、春さきの暖い晩でございましたが、生憎の暗で、相手の男の顔も見えなければ、着ている物などは、猶・・・ 芥川竜之介 「運」
・・・それを何ぞや天主ともあろうに、たとい磔木にかけられたにせよ、かごとがましい声を出すとは見下げ果てたやつでございます。そう云う臆病ものを崇める宗旨に何の取柄がございましょう? またそう云う臆病ものの流れを汲んだあなたとなれば、世にない夫の位牌・・・ 芥川竜之介 「おしの」
・・・それを誰より先に気づいたのは、あの白い広間のまん中に、食さえ断って横わっている、今は老い果てた母蜘蛛であった。蜘蛛は糸の敷物の下に、いつの間にか蠢き出した、新らしい生命を感ずると、おもむろに弱った脚を運んで、母と子とを隔てている嚢の天井を噛・・・ 芥川竜之介 「女」
・・・……さても三人一つ島に流されけるに、……などや御身一人残り止まり給うらんと、……都には草のゆかりも枯れはてて、……当時は奈良の伯母御前の御許に侍り。……おろそかなるべき事にはあらねど、かすかなる住居推し量り給え。……さてもこの三とせまで、い・・・ 芥川竜之介 「俊寛」
・・・ それから矢部は彼の方に何か言いかけようとしたが、彼に対してさえ不快を感じたらしく、監督の方に向いて、「六年間只奉公してあげくの果てに痛くもない腹を探られたのは全くお初つだよ。私も今夜という今夜は、慾もへちまもなく腹を立てちゃった。・・・ 有島武郎 「親子」
・・・鉄砧にあたる鉄槌の音が高く響くと疲れ果てた彼れの馬さえが耳を立てなおした。彼れはこの店先きに自分の馬を引張って来る時の事を思った。妻は吸い取られるように暖かそうな火の色に見惚れていた。二人は妙にわくわくした心持ちになった。 蹄鉄屋の先き・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・ はてな。人が殺されたという事実がそれだろうか。自分が、このフレンチが、それに立ち会っていたという事実がそれだろうか。死が恐ろしい、言うに言われぬ苦しいものだという事実がそれであろうか。 いやいや。そんな事ではない。そんなら何だろう・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・ やがて、自分のを並べ果てて、対手の陣も敷き終る折から、異香ほのぼのとして天上の梅一輪、遠くここに薫るかと、遥に樹の間を洩れ来る気勢。 円形の池を大廻りに、翠の水面に小波立って、二房三房、ゆらゆらと藤の浪、倒に汀に映ると見たのが、次・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・ 熟と聞きながら、うかうかと早や渡り果てた。 橋は、丸木を削って、三、四本並べたものにすぎぬ。合せ目も中透いて、板も朽ちたり、人通りにはほろほろと崩れて落ちる。形ばかりの竹を縄搦げにした欄干もついた、それも膝までは高くないのが、往き・・・ 泉鏡花 「海の使者」
・・・……はて、そりゃ、しかし、若いに似合わず、流行におくれたの。敵打は近頃はやらぬがの。」「そでないでっしゅ。仕返しでっしゅ、喧嘩の仕返しがしたいのでっしゅ。」「喧嘩をしたかの。喧嘩とや。」「この左の手を折られたでしゅ。」 とわ・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
出典:青空文庫