・・・ほのぼのと、夜が明け放れると、人々は浜辺にきて海をながめました。そして顔の色を変えてびっくりいたしました。「あのいやな色をした船は、どこからきたのだろう。」と、一人はいって、沖のかなたに見えた船を指さしました。「あの不思議な黒い・・・ 小川未明 「黒い旗物語」
・・・此れ等の打合せをしようにも、二人が病人の傍を離れる事は到底不可能な事、まして、小声でなんか言おうものなら、例の耳が決して逃してはおきません。 其夜、看護婦は徹夜をしました。私は一時間程横になりましたが、酸素が切れたので買いに走りました。・・・ 梶井久 「臨終まで」
・・・堯が間借り二階の四畳半で床を離れる時分には、主婦の朝の洗濯は夙うに済んでいて、漆喰は乾いてしまっている。その上へ落ちた痰は水をかけても離れない。堯は金魚の仔でもつまむようにしてそれを土管の口へ持って行くのである。彼は血の痰を見てももうなんの・・・ 梶井基次郎 「冬の日」
・・・書を読んで終に書を離れるのが知識階級の真理探究の順路である。 現代青年学生は盛んに、しかしながら賢明に書を読まねばならぬ。しかしながら最後には、人間教養の仕上げとしての人間完成のためには、一切の書物と思想とを否定せねばならぬものであるこ・・・ 倉田百三 「学生と読書」
・・・ 人間が合いまた離れるということは人生行路における運命である。そしてこれは心に沁みる切実なことである。世の中には対人関係、人と人との触れ合いについてかなり淡白な関心しか持っていない人々もあるが、しかし人間の精神生活というものはその大部分・・・ 倉田百三 「人生における離合について」
・・・本隊を遠く離れると、離れる程、恐怖は強くなって、彼等は、もう、たゞ彼等だけだと感じるようになった。 北満の曠野は限りがなかった。茫漠たる前方にあたって一軒の家屋が見えた。地図を片手に、さぐり/\進んでいた深山軍曹は、もう、命じられた地点・・・ 黒島伝治 「前哨」
・・・電燈から五六歩離れると、もう、全く、何物も見分けられない。土と、かびの臭いに満ちた空気の流動がかすかに分る。鉱車は、地底に這っている二本のレールを伝って、きし/\軋りながら移動した。 窮屈な坑道の荒い岩の肌から水滴がしたゝり落ちている。・・・ 黒島伝治 「土鼠と落盤」
・・・指が離れる、途端に先主人は潮下に流れて行ってしまい、竿はこちらに残りました。かりそめながら戦ったわが掌を十分に洗って、ふところ紙三、四枚でそれを拭い、そのまま海へ捨てますと、白い紙玉は魂ででもあるようにふわふわと夕闇の中を流れ去りまして、や・・・ 幸田露伴 「幻談」
・・・おげんはそこに眠っている人形の側でも離れるようにして、自分の娘の側を離れた。蚊帳を出て、部屋の雨戸を一二枚ほど開けて見ると、夏の空は明けかかっていた。「漸く来た。」 とおげんは独りでそれを言って見た。そこは地方によくあるような医院の・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・それでいながら、私はあなたから離れることが出来ません。どうしたのでしょう。あなたが此の世にいなくなったら、私もすぐに死にます。生きていることが出来ません。私には、いつでも一人でこっそり考えていることが在るんです。それはあなたが、くだらない弟・・・ 太宰治 「駈込み訴え」
出典:青空文庫