・・・同時にばたばたと飛び立った胸黒はちょうど真上に覆いかかった網の真唯中に衝突した、と思うともう網と一緒にばさりと刈田の上に落ちかかって、哀れな罪なき囚人はもはや絶体絶命の無効な努力で羽搏いているのである。飛ぶがごとく駈け寄った要太の一と捻りに・・・ 寺田寅彦 「鴫突き」
・・・その池の上の廊下を子供が二、三人ばたばた駆け歩いているのが見えた。不思議な家である。 千住大橋でおりて水天宮行の市電に乗った。乗客の人種が自分のいつも乗る市電の乗客と全くちがうのに気がついて少し驚いた。おはぐろのような臭気が車内にみなぎ・・・ 寺田寅彦 「猫の穴掘り」
・・・旧組織が崩れ出したら案外速にばたばたいってしまうものだ。地下に水が廻る時日が長い。人知れず働く犠牲の数が入る。犠牲、実に多くの犠牲を要する。日露の握手を来すために幾万の血が流れたか。彼らは犠牲である。しかしながら犠牲の種類も一ではない。自ら・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
・・・ ばたばたと走ッて来た草履の音が小万の室の前に止ッて、「花魁、ちょいと」と、中音に呼んだのは、小万の新造のお梅だ。「何だよ」「ちょいとお顔を」「あい。初会なら謝罪ッておくれ」「お馴染みですから」「誰だ。誰が来たんだ」・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・とけたたましい声がして、うす黒いもじゃもじゃした鳥のような形のものが、ばたばたばたばたもがきながら、流れて参りました。 ホモイは急いで岸にかけよって、じっと待ちかまえました。 流されるのは、たしかにやせたひばりの子供です。ホモイはい・・・ 宮沢賢治 「貝の火」
・・・ 霧の中を飛ぶ術のまだできていないふくろうの、ばたばた遁げて行く音がしました。 清作はそこで林を出ました。柏の木はみんな踊のままの形で残念そうに横眼で清作を見送りました。 林を出てから空を見ますと、さっきまでお月さまのあったあた・・・ 宮沢賢治 「かしわばやしの夜」
・・・流達聰明な先生の完成された老境というようなものと、私の女としての四苦八苦のばたばた暮しとは、我ながらいかにもかけちがった感じだった。 その親にたのまれて一二回作品を見てやったというだけの若年の娘にも、先生はお目にかかるかぎり懇切丁寧で、・・・ 宮本百合子 「時代と人々」
・・・ 住職がばたばた扉を閉めて行った本堂前の、落葉のある甃を歩き廻りながら、私共は、懐しく京都の黄檗山万福寺の境内を思い出した。去年、始めて私は観たのだが、彼処はよかった。全くよかった。ちょうど今より数日遅いやはり晩春であったが、山門の左右・・・ 宮本百合子 「長崎の印象」
・・・ お花はそのまま気絶したのを、お松は棄てて置いて、廊下をばたばたと母屋の方へ駈け出した。 * * * 川桝の内では一人も残らず起きて、廊下の隅々の電灯まで附けて、主人と隠居とが大勢のものの騒ぐの・・・ 森鴎外 「心中」
・・・自動車は門外の向側に停めてあって技手は襟をくつろげて扇をばたばた使っている。 玄関で二三人の客と落ち合った。白のジャケツやら湯帷子の上に絽の羽織やら、いずれも略服で、それが皆識らぬ顔である。下足札を受け取って上がって、麦藁帽子を預けて、・・・ 森鴎外 「余興」
出典:青空文庫