・・・ その王生がどう云う訳か、去年の秋以来忘れたように、ばったり痛飲を試みなくなった。いや、痛飲ばかりではない。吃喝嫖賭の道楽にも、全然遠のいてしまったのである。趙生を始め大勢の友人たちは、勿論この変化を不思議に思った。王生ももう道楽には、・・・ 芥川竜之介 「奇遇」
・・・彼によりますと、ルウドウィッヒスブルクの Ratzel と云う宝石商は、ある夜街の角をまがる拍子に、自分と寸分もちがわない男と、ばったり顔を合せたそうでございます。その男は、後間もなく、木樵りがの木を伐り倒すのに手を借して、その木の下に圧さ・・・ 芥川竜之介 「二つの手紙」
・・・ぽんと若い人が、その人形をもろに倒すと、むこうで、ばったり、今度は、うつむけにまた寝ました。 驚きましたわ。藁を捻ったような人形でさえ、そんな業をするんだもの。……活きたものは、いざとなると、どんな事をしようも知れない、可恐いようね・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・伯爵夫人はうれしげに、いとあどけなき微笑を含みて高峰の手より手をはなし、ばったり、枕に伏すとぞ見えし、脣の色変わりたり。 そのときの二人が状、あたかも二人の身辺には、天なく、地なく、社会なく、全く人なきがごとくなりし。下・・・ 泉鏡花 「外科室」
・・・ と中腰に立って、煙管を突込む、雁首が、ぼっと大きく映ったが、吸取るように、ばったりと紙になる。「消した、お前さん。」 内証で舌打。 霜夜に芬と香が立って、薄い煙が濛と立つ。「車夫。」「何ですえ。」「……宿に、桔・・・ 泉鏡花 「菎蒻本」
・・・「いいえ、あの、これと定ったこともございません、ございませんようなものの、ふらふら堀ノ内様の近辺、五宿あたり、夜更でも行きあたりばったりにうろついて、この辺へはめったに寄りつきませなんだのが、沢井様へお米が参りまして、ここでもまた、容色・・・ 泉鏡花 「政談十二社」
・・・ こんな時は、時々ばったりと往来が途絶えて、その時々、対合った居附の店の電燈瓦斯の晃々とした中に、小僧の形や、帳場の主人、火鉢の前の女房などが、絵草子の裏、硝子の中、中でも鮮麗なのは、軒に飾った紅入友染の影に、くっきりと顕れる。 露・・・ 泉鏡花 「露肆」
・・・ ねつい、怒った声が響くと同時に、ハッとして、旧の路へ遁げ出した女の背に、つかみかかる男の手が、伸びつつ届くを、躱そうとしたのが、真横にばったり。 伸しかかると、二ツ三ツ、ものをも言わずに、頬とも言わず、肩とも言わず、男の拳が、尾花・・・ 泉鏡花 「みさごの鮨」
・・・撫子、襖際に出で、ばったり通盆を落し、はっと座ると一所に、白糸もトンと座につき、三人ひとしく会釈す。欣弥、不器用に慌しく座蒲団を直して、下座に来り、無理に白糸を上座に直し、膝を正し、きちんと手をつく。欣弥 一別以来、三年、一千有・・・ 泉鏡花 「錦染滝白糸」
・・・ 以上、でたらめに本をひらいて、行きあたりばったり、その書き出しの一行だけを、順序不同に並べてみましたが、どうです。うまいものでしょう。あとが読みたくなるでしょう。物語を創るなら、せめて、これくらいの書き出しから説き起してみたいものです・・・ 太宰治 「女の決闘」
出典:青空文庫