・・・水面をすかして見ると青白い真珠色の皮膜を張ってその膜には氷裂状にひびがはいっているのであった。晩秋の夜ふけなどには、いつもちょうどこの土瓶のへんでこおろぎが声を張り上げて鳴いていたような気がする。 このきたない土瓶からきたない水を湯飲み・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・ 私たちはちょっとのことで、気分のまるで変わった電車のなかに並んで腰かけた。播州人らしい乗客の顔を、私は眺めまわしていた。でも言葉は大阪と少しも変わりはなかった。山がだんだんなだらかになって、退屈そうな野や町が、私たちの目に懈く映った。・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・孟宗竹の生茂った藪の奥に晩秋の夕陽の烈しくさし込み、小鳥の声の何やら物急しく聞きなされる薄暮の心持は、何に譬えよう。 深夜天井裏を鼠の走り廻るおそろしい物音に驚かされ、立って窓の戸を明けると、外は昼のような月夜で、庭の上には樹の影が濃く・・・ 永井荷風 「西瓜」
・・・さながら晩秋に異らぬ烈しい夕栄の空の下、一望際限なく、唯黄いろく枯れ果てた草と蘆とのひろがりを眺めていると、何か知ら異様なる感覚の刺戟を受け、一歩一歩夜の進み来るにもかかわらず、堤の上を歩みつづけた。そして遥か河下の彼方に、葛西橋の燈影のち・・・ 永井荷風 「放水路」
・・・其同勢のうちにお石は必ず居たのである。晩秋の収穫季になると何処でも村の社の祭をする。土地ではそれをマチといって居る。マチは村落によって日が違った。瞽女はぐるぐるとマチを求めて村々をめぐる。太十の目には田の畔から垣根から庭からそうして柿の木に・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・「播州平野」と「風知草」とは、作者が戦争によって強いられていた五年間の沈黙ののちにかかれ、発表された。主題とすれば、一九三二年以来、作者にとってもっとも書きたくて、書くことの出来ずにいた主題であった。この二つの作品は、日本のすべての人々・・・ 宮本百合子 「あとがき(『宮本百合子選集』第七巻)」
・・・「風知草」「播州平野」「二つの庭」「道標」それにつづいて執筆されつつある一九四五年以後の作品は、その作者が、自身の必然に立って民主的文学の課題にこたえようと試みているものである。「風知草」は「播州平野」とともに一九四七年度毎日文化賞をう・・・ 宮本百合子 「解説(『風知草』)」
・・・ 十月にはいると、モスクは晩秋だ。 並木道がすっかり黄色くなり、深く重りあった黄色い秋の木の葉のむこうに、それより更に黄色く塗られたロシア風の建物の前面が見える。よく驟雨が降った。並木道には水たまりが出来る。すぐあがった雨のあとは爽・・・ 宮本百合子 「「鎌と鎚」工場の文学研究会」
・・・ 桜が咲きかけて居るのに、晩秋の様な日光を見て居ると、何となくじめじめした沈んだ気になる。 暖かなので開け放した部屋が急にガランとして見えて、母が居ない家中は、どことなし気が落ちつかない。火がないので、真黒にむさくるしいストーブを見・・・ 宮本百合子 「草の根元」
・・・「播州平野」をかいた方法で、この複雑でごたついた重荷は運べない。もうひと戻りしよう。「伸子」よりつい一歩先のところから出発しよう。そして、みっともなくても仕方がないから、一歩一歩の発展をふみしめて、「道標」へ進み、快適なテムポであっさりと読・・・ 宮本百合子 「心に疼く欲求がある」
出典:青空文庫