・・・一層悲しげに見える料理店の桃色の窓枠の間々には、もう新鮮さを失った飾花や、焼きざましのパイの大皿や青いペパミントのくくれた罐などがある。 鋪道には、絶え間なく男や女が歩いていた。が、どの歩調も余り悠長ではなかった。 折鞄を小脇にかか・・・ 宮本百合子 「小景」
・・・ Yは、卓越したパイ焼職人のように、上手に地図と時間表とを麺棒に使い、貧弱な旅費の捏粉を巧に長崎まで延して来たのであった。 宿を出、両側、歩道の幅だけ長方形の石でたたんだ往来を、本興善町へ抜け、或る角を右にとる。町家は、表に細かい格子を・・・ 宮本百合子 「長崎の印象」
・・・ と讚美する口葉の、丁度したののみつからない光君の心は人の世、この世の中にないものにまでそのめでたさをたとえて居たが若い頭の中を一っぱいに占領してはげしい形容詞をもとめて居る、美くしいと云う感情を満足させる事は出来なかった。紫の君の何も思わ・・・ 宮本百合子 「錦木」
・・・老人、もう九十以上の年で髪も眉も皆白くてつやつやしいおだやかな様子で真白な毛のついた足一っぱいの上着をつけて首から小さい銀の十字架をつるす。王の親の様な心持で只やたらに可愛と云う気持。王 月があまり美くしいので都娘にフト出・・・ 宮本百合子 「胚胎(二幕四場)」
・・・みんな紅葉したのが一っぱい白い花が咲いてまどには紫のガラス。「ここが私の家ですの、入って頂戴」詩人は女に手をとられて中に入りました。すぐ美くしいかおりは身のまわりをこめて来ます。雪の光は紫のカーテンやガラスにさえぎられて部屋一面に薄紫、椅子・・・ 宮本百合子 「無題(一)」
出典:青空文庫