・・・ただその条件が必至のものでないだけの事であった。 毎日少しずつ鋏を使いながら少しずついろいろの事を考えた。いろいろの考えはどこから出て来るかわからなかった。前の考えとあとの考えとの関係もわからなかった。昔ミダス王の理髪師がささやいた秘密・・・ 寺田寅彦 「芝刈り」
・・・ 庄太郎は必死の勇をふるって、豚の鼻頭を七日六晩叩いた。けれども、とうとう精根が尽きて、手が蒟蒻のように弱って、しまいに豚に舐められてしまった。そうして絶壁の上へ倒れた。 健さんは、庄太郎の話をここまでして、だからあんまり女を見るの・・・ 夏目漱石 「夢十夜」
・・・ 私は悪夢の中で夢を意識し、目ざめようとして努力しながら、必死にもがいている人のように、おそろしい予感の中で焦燥した。空は透明に青く澄んで、充電した空気の密度は、いよいよ刻々に嵩まって来た。建物は不安に歪んで、病気のように瘠せ細って来た・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・その苦しさと苛だたしさとは、到底筆紙に説明することが出来ないのである。しかも表面はさりげなく、普通に会話して居なければならないのである。この忌々しい病気の為に、過去に僕は幾人かの友人を無くしてしまい、愛する人を意外の敵に回してしまった。特に・・・ 萩原朔太郎 「僕の孤独癖について」
・・・ それは筆紙に表わし得ない種類のものであった。 深谷は、一週間前に溺死したセコチャンの新仏の廓内にいた! 彼のどこにそんな力があったのであろう。野球のチャンが二人でようやく載っけることができた、仮の墓石を、深谷のヒョロヒョロな手・・・ 葉山嘉樹 「死屍を食う男」
・・・されどもまず米の相場を一両に一斗と見込み、この割合にすれば、たとい塾中におるも外に旅宿するも、一ヶ月金六両にて、月俸、月金、結髪、入湯、筆紙の料、洗濯の賃までも払うて不自由なかるべし。ただし飲酒は一大悪事、士君子たる者の禁ずべきものなれば、・・・ 福沢諭吉 「慶応義塾新議」
・・・ それより以下幾百万の貧民は、たとい無月謝にても、あるいはまた学校より少々ずつの筆紙墨など貰うほどのありがたき仕合にても、なおなお子供を手離すべからず。八歳の男の子には、草を刈らせ牛を逐わせ、六歳の妹には子守の用あり。学校の教育、願わし・・・ 福沢諭吉 「小学教育の事」
・・・の議論などはともかくも、家名を重んずるの習俗に制せられて、止むを得ず妾を畜うの場合に至りしは無理もなきことにして、またこれ一国の一主義として恕すべきに似たれども、天下後世これより生ずる所の弊害は、実に筆紙にも尽し難きものあり。 さなきだ・・・ 福沢諭吉 「日本男子論」
・・・に当りて徳川の旗下に属し、能く自他の分を明にして二念あることなく、理にも非にもただ徳川家の主公あるを知て他を見ず、いかなる非運に際して辛苦を嘗るもかつて落胆することなく、家のため主公のためとあれば必敗必死を眼前に見てなお勇進するの一事は、三・・・ 福沢諭吉 「瘠我慢の説」
・・・もうそのうちにも船は沈みますし、私は必死となって、どうか小さな人たちを乗せて下さいと叫びました。近くの人たちはすぐみちを開いてそして子供たちのために祈って呉れました。けれどもそこからボートまでのところにはまだまだ小さな子どもたちや親たちやな・・・ 宮沢賢治 「銀河鉄道の夜」
出典:青空文庫