・・・ 街へ出ると吹き通る空っ風がもう人足を疎らにしていた。宵のうち人びとが掴まされたビラの類が不思議に街の一と所に吹き溜められていたり、吐いた痰がすぐに凍り、落ちた下駄の金具にまぎれてしまったりする夜更けを、彼は結局は家へ帰らねばならないの・・・ 梶井基次郎 「冬の日」
・・・ただ二人が唄う節の巧みなる、その声は湿りて重き空気にさびしき波紋をえがき、絶えてまた起こり、起こりてまた絶えつ、周囲に人影見えず、二人はわれを見たれど意にとめざるごとく、一足歩みては唄い、かくて東屋の前に立ちぬ。姉妹共に色蒼ざめたれど楽しげ・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・ 夕暮近いので、街はひとしおの雑踏を極め、鉄道馬車の往来、人車の東西に駈けぬける車輪の音、途を急ぐ人足の響きなど、あたりは騒然紛然としていた。この騒がしい場所の騒がしい時にかの男は悠然と尺八を吹いていたのである。それであるから、自分の目・・・ 国木田独歩 「女難」
・・・ 支那人は、抑圧せられ、駆逐せられてなお、余喘を保っている資本主義的分子や、富農や意識の高まらない女たちをめがけて、贅沢品を持ちこんでくるのだ。一足の絹の靴下に五ルーブルから、八ルーブルの金を取って帰って行く。そして国境外では、サヴエー・・・ 黒島伝治 「国境」
・・・時はもう明末にかかり、万事不束で、人も満足なものもなかったので、一厨役の少し麁鹵なものにその鼎を蔵した管龠を扱わせたので、その男があやまってその贋鼎の一足を折ってしまった。で、その男は罪を懼れて身を投げて死んで終った。その頃大兵が杭州に入り・・・ 幸田露伴 「骨董」
・・・いよいよ次郎も私の勧めをいれ、都会を去ろうとする決心がついたので、この子を郷里へ送る前に、私は一足先に出かけて行って来たいと思った。留守中のことは次郎に預けて行きたいと思う心もあった。日ごろ家にばかり引きこもりがちの私が、こんな気分のいい日・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・ 婆あさんは、目を小さくして老人の顔を見ていたが、一足傍へ歩み寄って、まだ詞の口から出ないうちに笑いかけて云った。「お前さんはケッセル町の錠前屋のロオレンツさんじゃあないか。」「うん。そうだ。こないだじゅうは工場で働いていたのだが、・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・上れるだけ一足でも高く、境に繞らす竹垣の根まで、雑木の中をむりやりに上って、小松の幹を捉えて息を吐く。 白帆が見える。池のごとくに澄みきった黄昏の海に、白帆が一つ、動くともなく浮いている。藤さんの船に違いない。帆のない船はみんな漁船であ・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・三越では、それからかず枝は、特売場で白足袋を一足買い、嘉七は上等の外国煙草を買って、外へ出た。自動車に乗り、浅草へ行った。活動館へはいって、そこでは荒城の月という映画をやっていた。さいしょ田舎の小学校の屋根や柵が映されて、小供の唱歌が聞えて・・・ 太宰治 「姥捨」
・・・その食堂には、大工や土方人足などがお客であって、角帽かぶった大学生はまったく珍らしかった様子で、この店だけは、いつ来ても大丈夫、六人の女中みんなが、あれこれとかまって呉れた。人からあなどりを受け、ぺしゃんこに踏みにじられ、ほうり出されたとき・・・ 太宰治 「狂言の神」
出典:青空文庫