・・・然し、植木屋の安が、例年の通り、家の定紋を染出した印半纒をきて、職人と二人、松と芭蕉の霜よけをしにとやって来た頃から、間もなく初霜が午過ぎから解け出して、庭へはもう、一足も踏み出されぬようになった。二 家の飼犬が知らぬ間に何・・・ 永井荷風 「狐」
・・・荒布の前掛を締めた荷揚の人足が水に臨んだ倉の戸口に蹲踞んで凉んでいると、往来際には荷車の馬が鬣を垂して眼を細くし、蠅の群れを追払う元気もないようにじっとしている。運送屋の広い間口の店先には帳場格子と金庫の間に若い者が算盤を弾いていたが人の出・・・ 永井荷風 「夏の町」
・・・犬殺しは太十の姿を見て一足すさった。「何すんだ」 太十は思わず呶鳴った。「殺すのよ」 犬殺しは太いそうして低い声で応じた。「殺せんなら殺して見ろ」 太十はいきなり犬を引っつるように左手で抱えた。「見やがれ殺しはぐ・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・戦も忘れ、盾も忘れ、我身をも忘れ、戸口に人足の留ったも忘れて聞いている。ことことと戸を敲くものがある。ウィリアムは魔がついた様な顔をして動こうともしない。ことことと再び敲く。ウィリアムは両手に紙片を捧げたまま椅子を離れて立ち上る。夢中に行く・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・もしこの家を引越すとするとこの四足の靴をどうして持って行こうかと思い出した。一足は穿く、二足は革鞄につまるだろう、しかし余る一足は手にさげる訳には行かんな、裸で馬車の中へ投り込むか、しかし引越す前には一足はたしかに破れるだろう。靴はどうでも・・・ 夏目漱石 「倫敦消息」
・・・ 蛞蝓は一足下りながら、そう云った。「一体何だってんだ、お前たちは。第一何が何だかさっぱり話が分らねえじゃねえか、人に話をもちかける時にゃ、相手が返事の出来るような物の言い方をするもんだ。喧嘩なら喧嘩、泥坊なら泥坊とな」「そりゃ・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・わたくしは万事につけて、一足一足と譲歩して参りました。わたくしには自己の意志と云うものがございません。わたくしは持前の快活な性質を包み隠しています。夫がその性質を挑発的だと申すからでございます。わたくしはただ平和が得たいばかりに、自己の個人・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・何となくここを見捨てるのが残り惜いので車を返せといおうと思うたがそれも余り可笑しいからいいかねて居ると車は一足二足と山へ上って行く。何か買物でもしようかと思うて、それで車返せといおうとしたが、ちょっと買うような物がない。車は一足二足とまた進・・・ 正岡子規 「熊手と提灯」
・・・あした雨が晴れるか晴れないかよりも、今夜ぼくが…………を一足つくれることのほうがよっぽどたしかなんだから。 宮沢賢治 「或る農学生の日誌」
・・・今ここに提出されているいくつかの問題を、事実上私たちの発意と、集結された民主力とで、一歩ずつ解決に押しすすめてゆく、その一足が、私たちの眼路はるかに、広々とした民主日本、封建から解かれ、美しく頭をもたげた日本女性の立ち姿を予約しているのであ・・・ 宮本百合子 「合図の旗」
出典:青空文庫