・・・ 書類が一山片づいた後、陳はふと何か思い出したように、卓上電話の受話器を耳へ当てた。「私の家へかけてくれ給え。」 陳の唇を洩れる言葉は、妙に底力のある日本語であった。「誰?――婆や?――奥さんにちょいと出て貰ってくれ。――房・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・その上荒れはてた周囲の風物が、四方からこの墓の威厳を害している。一山の蝉の声の中に埋れながら、自分は昔、春雨にぬれているこの墓を見て、感に堪えたということがなんだかうそのような心もちがした。と同時にまた、なんだか地下の樗牛に対してきのどくな・・・ 芥川竜之介 「樗牛の事」
・・・あの老人の言葉通り、夕日に影を映して見て、その頭に当る所を、夜中にそっと掘って見たら、大きな車にも余る位、黄金が一山出て来たのです。 大金持になった杜子春は、すぐに立派な家を買って、玄宗皇帝にも負けない位、贅沢な暮しをし始めました。蘭陵・・・ 芥川竜之介 「杜子春」
・・・そこでこちらも柱の根がたに坐ってばかりは居られませんので、嫌々腰を擡げて見ますと、ここにも揉烏帽子や侍烏帽子が人山を築いて居りましたが、その中に交ってあの恵門法師も、相不変鉢の開いた頭を一きわ高く聳やかせながら、鵜の目もふらず池の方を眺めて・・・ 芥川竜之介 「竜」
・・・真黒な線のようになって、横ぶりにびしゃびしゃと頬辺を打っちゃあ霙が消えるんだ。一山々々になってる柳の枯れたのが、渦を巻いて、それで森として、あかり一ツ見えなかったんだ。母様が、 と独言のようにおっしゃったが、それっきりどこかへいらっ・・・ 泉鏡花 「清心庵」
・・・ 前棒の親仁が、「この一山の、見さっせえ、残らず栃の木の大木でゃ。皆五抱え、七抱えじゃ。」「森々としたもんでがんしょうが。」と後棒が言を添える。「いかな日にも、はあ、真夏の炎天にも、この森で一度雨の降らぬ事はねえのでの。」清水の雫かつ迫・・・ 泉鏡花 「栃の実」
・・・ しかしこれは、工人の器量を試みようとして、棚の壇に飾った仏体に対して試に聞いたのではない。もうこの時は、樹島は既に摩耶夫人の像を依頼したあとだったのである。 一山に寺々を構えた、その一谷を町口へ出はずれの窮路、陋巷といった細小路で・・・ 泉鏡花 「夫人利生記」
・・・ 茶めし餡掛、一品料理、一番高い中空の赤行燈は、牛鍋の看板で、一山三銭二銭に鬻ぐ。蜜柑、林檎の水菓子屋が負けじと立てた高張も、人の目に着く手術であろう。 古靴屋の手に靴は穿かぬが、外套を売る女の、釦きらきらと羅紗の筒袖。小間物店の若・・・ 泉鏡花 「露肆」
・・・その風采や、さながら一山の大導師、一体の聖者のごとく見えたのであった。大正十二年一月 泉鏡花 「みさごの鮨」
・・・天上はかく静かなれど地上の騒ぎは未だやまず、五味坂なる派出所の前は人山を築けり。余は家のこと母のこと心にかかれば、二郎とは明朝を期して別れぬ。 家には事なかりき。しばし母上と二郎が幸なき事ども語り合いしが母上、恋ほどはかなきものはあらじ・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
出典:青空文庫