・・・「若いの、あの箱を拾う勇気があるかの。」 おじいさんの言葉は、なんとなく、意味ありげでした。 この刹那、青年の頭のうちには、幸福と正反対の死ということがひらめいたのでした。「おれは、まだ死んではならない。もうすこしで、あぶな・・・ 小川未明 「希望」
・・・二人は空腹と疲労のために、もはや一歩も動くことができずに、沖の方をながめて、ぼんやりと泣かんばかりにして立っていました。そのうちに、みぞれまじりの雨がしとしとと降りだしてきて、日はとっぷりと暮れてしまいました。二人は闇のうちに抱き合っていま・・・ 小川未明 「黒い旗物語」
・・・ 彼は、それを拾うと、指さきで土を落としました。そして、壁に書いてある、落書きに並べて良吉は、自分の村の名を書き、そのかたわらにM生としたのであります。良吉の姓は、村山であったからです。 自分たちの村が並んでいるように、このガードの・・・ 小川未明 「隣村の子」
・・・「へへへ、そんなに恍けなくたって、どうせそのうちに御披露があるんでしょうから……」と言って、為さんは少し膝を進めて、「ですが、お上さん、親方はそりゃ粋を利かして死んなすったにしても、ね、前々からこういうわけだということが、例えば私の口か・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・といえば嘘みたいですが、本当に疲労と空腹がはげしくなれば、口を利くのもうるさくなる。ままよ、面倒くさい口を利くくらいなら、いっそ食べずにおこうと思うわけ、そしてそんな状態が続けば、しまいには口を利きたくても唇が動かなくなるのです。そうして、・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・ 親の代からの印刷業で、日がな一日油とインキに染って、こつこつ活字を拾うことだけを仕事にして、ミルクホール一軒覗きもしなかった。二十九の年に似合わぬ、坂田はんは堅造だ、変骨だといわれていた。両親がなく、だから早く嫁をと世話しかける人があ・・・ 織田作之助 「雪の夜」
・・・貴様は仕合ぞ、命を拾うたちゅうもんじゃぞ! 骨にも動脈にも触れちょらん。如何して此三昼夜ばッか活ちょったか? 何を食うちょったか?」「何も食いません。」「水は飲まんじゃったか?」「敵の吸筒を……看護長殿、今は談話が出来ません。も・・・ 著:ガールシンフセヴォロド・ミハイロヴィチ 訳:二葉亭四迷 「四日間」
・・・彼はひどく疲労を感じていた。そしてまだ晩飯を済ましてなかったので、三人ともひどく空腹であった。 で彼等は、電車の停留場近くのバーへ入った。子供等には寿司をあてがい、彼は酒を飲んだ。酒のほかには、今の彼に元気を附けて呉れる何物もないような・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・未だかつて疲労にも憂愁にも汚されたことのない純粋に明色の海なんだ。遊覧客や病人の眼に触れ過ぎて甘ったるいポートワインのようになってしまった海ではない。酢っぱくって渋くって泡の立つ葡萄酒のような、コクの強い、野蕃な海なんだ。波のしぶきが降って・・・ 梶井基次郎 「海 断片」
・・・お前のいう通り若くて上品で、それから何だッけな、うむその沈着いていて気性が高くて、まだ入用ならば学問が深くて腕が確かで男前がよくて品行が正しくて、ああ疲労れた、どこに一箇所落ちというものがない若者だ。 たんとそんなことをおっしゃいまし。・・・ 川上眉山 「書記官」
出典:青空文庫