・・・と誦するのが、いうべからざる一種の福音を川面に伝えて渡った、七兵衛の船は七兵衛が乗って漂々然。 九 蓬莱橋は早や見える、折から月に薄雲がかかったので、野も川も、船頭と船とを淡く残して一面に白み渡った、水の色は殊に・・・ 泉鏡花 「葛飾砂子」
・・・ 二葉亭の頭は根が治国平天下の治者思想で叩き上げられ、一度は軍人をも志願した位だから、ヒューマニチーの福音を説きつつもなお権力の信仰を把持して、“Might is right”の信条を忘れなかった。貴族や富豪に虐げられる下層階級者に同情・・・ 内田魯庵 「二葉亭追録」
・・・者と同じく天国は其人の有なれば也、現世に在りては義のために責められ、来世に在りては義のために誉めらる、単に普通一般の義のために責めらるるに止まらず、更に進んで天国と其義のために責めらる、即ちキリストの福音のために此世と教会とに迫害らる、栄光・・・ 内村鑑三 「聖書の読方」
・・・の原稿も、復員軍人の話も、酒場のマダムも、あの中に出て来る「私」もみんな虚構だと、くどくど説明したが、その大学教授は納得しないのである。私は業を煮やして、あの小説は嘘を書いただけでなく、どこまで小説の中で嘘がつけるかという、嘘の可能性を試し・・・ 織田作之助 「可能性の文学」
・・・今日 復員列車といおうか、買い出し列車といおうか、汽車は震災当時の避難列車を思わせるような混み方であった。 一本の足を一寸動かすだけでも、一日の配給量の半分のカロリーが消耗されるくらいの努力が要り、便所へも行けず、窓以外・・・ 織田作之助 「昨日・今日・明日」
・・・…… そんな不義理をしていたのだが、しかし寒そうに顫えている横堀の哀れな復員姿を見ると、腹を立てる前に感覚的な同情が先立って、中へ入れたのだ。横堀の身なりを見た途端、もしかしたら浮浪者の仲間にはいって大阪駅あたりで野宿していたのではない・・・ 織田作之助 「世相」
・・・ 小沢は外地から復員して、今夜やっと故郷の大阪へ帰って来たばかしだが、終戦後の都会や近郊の辻強盗の噂は、汽車の中できいて知っていた。「…………」 娘はだまって首を振った。「じゃ、どうしたんです……?」 娘はそれには答えず・・・ 織田作之助 「夜光虫」
・・・母散と清婦湯他は一度女に食われて後のことなり俊雄は冬吉の家へ転げ込み白昼そこに大手を振ってひりりとする朝湯に起きるからすぐの味を占め紳士と言わるる父の名もあるべき者が三筋に宝結びの荒き竪縞の温袍を纏い幅員わずか二万四千七百九十四方里の孤島に・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・馬鹿な弟子どもは、あの人を神の御子だと信じていて、そうして神の国の福音とかいうものを、あの人から伝え聞いては、浅間しくも、欣喜雀躍している。今にがっかりするのが、私にはわかっています。おのれを高うする者は卑うせられ、おのれを卑うする者は高う・・・ 太宰治 「駈込み訴え」
・・・乃公の如きは幼少の頃より、もっぱら其の独りを慎んで古聖賢の道を究め、学んで而して時に之を習っても、遠方から福音の訪れ来る気配はさらに無く、毎日毎日、忍び難い侮辱ばかり受けて、大勇猛心を起して郷試に応じても無慙の失敗をするし、この世には鉄面皮・・・ 太宰治 「竹青」
出典:青空文庫