・・・唯、この弟たるべき自分が、時々向うの好意にもたれかゝって、あるまじき勝手な熱を吹く事もあるが、それさえ自分に云わせると、兄貴らしい気がすればこそである。 この兄貴らしい心もちは、勿論一部は菊池の学殖が然しめる所にも相違ない。彼のカルテュ・・・ 芥川竜之介 「兄貴のような心持」
・・・ 松山に渡った一行は、毎日編笠を深くして、敵の行方を探して歩いた。しかし兵衛も用心が厳しいと見えて、容易に在処を露さなかった。一度左近が兵衛らしい梵論子の姿に目をつけて、いろいろ探りを入れて見たが、結局何の由縁もない他人だと云う事が明か・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・足の裏をくすむるように砂が掘れて足がどんどん深く埋まってゆくのがこの上なく面白かったのです。三人は手をつないだまま少しずつ深い方にはいってゆきました。沖の方を向いて立っていると、膝の所で足がくの字に曲りそうになります。陸の方を向いていると向・・・ 有島武郎 「溺れかけた兄妹」
・・・ 今日はいよいよ退院するという日は、霰の降る、寒い風のびゅうびゅうと吹く悪い日だったから、私は思い止らせようとして、仕事をすますとすぐ病院に行ってみた。然し病室はからっぽで、例の婆さんが、貰ったものやら、座蒲団やら、茶器やらを部屋の隅で・・・ 有島武郎 「小さき者へ」
・・・女ながらに気性の勝れて強いお前たちの母上は、私と二人だけいる場合でも泣顔などは見せた事がないといってもいい位だったのに、その時の涙は拭くあとからあとから流れ落ちた。その熱い涙はお前たちだけの尊い所有物だ。それは今は乾いてしまった。大空をわた・・・ 有島武郎 「小さき者へ」
・・・A おれはおれに歌を作らせるよりも、もっと深くおれを愛している。B 解らんな。A 解らんかな。しかしこれは言葉でいうと極くつまらんことになる。B 歌のような小さいものに全生命を託することが出来ないというのか。A おれは初・・・ 石川啄木 「一利己主義者と友人との対話」
・・・ やがて四阿の向うに来ると、二人さっと両方に分れて、同一さまに深く、お太鼓の帯の腰を扱帯も広く屈むる中を、静に衝と抜けて、早や、しとやかに前なる椅子に衣摺のしっとりする音。 と見ると、藤紫に白茶の帯して、白綾の衣紋を襲ねた、黒髪の艶・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・ 三間幅――並木の道は、真白にキラキラと太陽に光って、ごろた石は炎を噴く……両側の松は梢から、枝から、おのが影をおのが幹にのみ這わせつつ、真黒な蛇の形を畝らす。 雲白く、秀でたる白根が岳の頂に、四時の雪はありながら、田は乾き、畠は割・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・ 扱帯の下を氷で冷すばかりの容体を、新造が枕頭に取詰めて、このくらいなことで半日でも客を断るということがありますか、死んだ浮舟なんざ、手拭で汗を拭く度に肉が殺げて目に見えて手足が細くなった、それさえ我儘をさしちゃあおきませなんだ、貴女は・・・ 泉鏡花 「葛飾砂子」
・・・ほんとに冷々するんですよ。拭くたびにだんだんお顔がねえ、小さくなって、頸ン処が細くなってしまうんですもの、ひどいねえ、私ゃお医者様が、口惜くッてなりません。 だって、はじめッから入院さしたッて、どうしたッて、いけないッて見離しているんで・・・ 泉鏡花 「誓之巻」
出典:青空文庫