・・・ 紙をまとめて、机代りの箱の上にのせ、硯に紙の被をし筆を拭くと、左の手でグイと押しやって、そのまんま燈りの真下へ、ゴロンと仰向になった。 非常に目が疲労すると、まぼしかるべきランプの光線さえ、さほどに感じない様になるのだ。 黒い・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
・・・彼女は、どういう苦悩を予感して、イエスの埃にまみれて痛い足を、あたためた香油にひたして洗い、その足を自分のゆたかに柔かな髪の毛で拭く、という限りなく思いやりにみたされた動作をしたろう。マグダラのマリアの物語の人間らしい美しさは、イエスと彼女・・・ 宮本百合子 「傷だらけの足」
・・・アルコールを貰って水にわって体を拭くことは出来ないものでしょうか。 私は今月の初めからずっときのうまで非常に忙しく沢山勉強もしたし、自身で堪能するだけ書くものにしろ深めたものを書いたので、読んでいただけないのがまことに残念です。そのため・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
・・・という恐怖が目覚めて、大いそぎで涙を拭く彼女は、激情の緩和された後の疲れた平穏さと、まだ何処にか遺っている苦しくない程度の憂鬱に浸って、優雅な蒼白い光りに包まれながら、無限の韻律に顫える万物の神秘に、過ぎ去った夢の影を追うのであった。・・・ 宮本百合子 「地は饒なり」
・・・そのとき鷹は水底深く沈んでしまって、歯朶の茂みの中に鏡のように光っている水面は、もうもとの通りに平らになっていた。二人の男は鷹匠衆であった。井の底にくぐり入って死んだのは、忠利が愛していた有明、明石という二羽の鷹であった。そのことがわかった・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・例年簷に葺く端午の菖蒲も摘まず、ましてや初幟の祝をする子のある家も、その子の生まれたことを忘れたようにして、静まり返っている。 殉死にはいつどうしてきまったともなく、自然に掟が出来ている。どれほど殿様を大切に思えばといって、誰でも勝手に・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・丁寧に消毒した手を有合の手拭で拭くような事が、いつまでも止まなかった。 これに反して、若い花房がどうしても企て及ばないと思ったのは、一種の Coup d'ドヨイユ であった。「この病人はもう一日は持たん」と翁が云うと、その病人はきっと二・・・ 森鴎外 「カズイスチカ」
・・・ 若衆は笛を吹く。いつも不意に所望せられるので、身を放さずに持っている笛である。夜はしだいにふけて行く。燃え下がった蝋燭の長く延びた心が、上の端は白くなり、その下は朱色になって、氷柱のように垂れた蝋が下にはうずたかく盛り上がっている。澄・・・ 森鴎外 「佐橋甚五郎」
・・・毎日同じ時刻に刀剣に打粉を打って拭く。体を極めて木刀を揮る。婆あさんは例のまま事の真似をして、その隙には爺いさんの傍に来て団扇であおぐ。もう時候がそろそろ暑くなる頃だからである。婆あさんが暫くあおぐうちに、爺いさんは読みさした本を置いて話を・・・ 森鴎外 「じいさんばあさん」
・・・それが食事の跡でざっと拭くだけなので、床と同じ薄墨色になっている。 一体役所というものは、随分議会で経費をやかましく言われるが、存外質素に出来ていて、貧乏らしいものである。 号砲に続いて、がらんがらんと銅の鐸を振るを合図に、役人が待・・・ 森鴎外 「食堂」
出典:青空文庫