・・・…… こう思いながら、内蔵助は眉をのべて、これも書見に倦んだのか、書物を伏せた膝の上へ、指で手習いをしていた吉田忠左衛門に、火鉢のこちらから声をかけた。「今日は余程暖いようですな。」「さようでございます。こうして居りましても、ど・・・ 芥川竜之介 「或日の大石内蔵助」
・・・食卓の上には、昨夜泊った叔母の茶碗も伏せてあった。が、叔母は看護婦が、長い身じまいをすませる間、母の側へその代りに行っているとか云う事だった。 親子は箸を動かしながら、時々短い口を利いた。この一週間ばかりと云うものは、毎日こう云う二人き・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・彼女は座席につくと面を伏せて眼を閉じた。ややともすると所も弁えずに熱い涙が眼がしらににじもうとした。それは悲しさの涙でもあり喜びの涙でもあったが、同時にどちらでもなかった。彼女は今まで知らなかった涙が眼を熱くし出すと、妙に胸がわくわくして来・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・私は凄惨な感じに打たれて思わず眼を伏せてしまった。 愈々H海岸の病院に入院する日が来た。お前たちの母上は全快しない限りは死ぬともお前たちに逢わない覚悟の臍を堅めていた。二度とは着ないと思われる――そして実際着なかった――晴着を着て座を立・・・ 有島武郎 「小さき者へ」
・・・ と雲の峰の下に、膚脱、裸体の膨れた胸、大な乳、肥った臀を、若い奴が、鞭を振って追廻す――爪立つ、走る、緋の、白の、股、向脛を、刎上げ、薙伏せ、挫ぐばかりに狩立てる。「きゃッ。」「わッ。」 と呼ぶ声、叫ぶ声、女どもの形は、黒・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・ 袖近く、あわれや、片手の甲の上に、額を押伏せた赤沼の小さな主は、その目を上ぐるとひとしく、我を忘れて叫んだ。「ああ、見えましゅ……あの向う丘の、二階の角の室に、三人が、うせおるでしゅ。」 姫の紫の褄下に、山懐の夏草は、淵のごと・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・またしばらく額を枕へ当てたまま打つ伏せになってもがいている。 全く省作は非常にくたぶれているのだ。昨日の稲刈りでは、女たちにまでいじめられて、さんざん苦しんだためからだのきかなくなるほどくたぶれてしまった。「百姓はやアだなあ……。あ・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・僕のではない、他の中隊の一卒で、からだは、大けかったけど、智慧がまわりかねた奴であったさかい、いつも人に馬鹿にされとったんが『伏せ』の命令で発砲した時、急に飛び起きて片足立ちになり、『あ、やられた! もう、死ぬ! 死ぬ!』て泣き出し、またば・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・電報は来ているが、海軍省が伏せてるから号外を出せないんだ、」とさも大本営か海軍省の幕僚でもあるような得意な顔をして、「昨夜はマンジリともしなかった。今朝も早くから飛出して今まで社に詰めていた。結局はマダ解らんが、電報が来る度毎に勝利の獲物が・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・鞭は持たず、伏せをしたように頭を低めて、馬の背中にぴたりと体をつけたまま、手綱をしゃくっている騎手の服の不気味な黒と馬の胴につけた数字の1がぱっと観衆の眼にはいり、1か7か9か6かと眼を凝らした途端、はやゴール直前で白い息を吐いている先頭の・・・ 織田作之助 「競馬」
出典:青空文庫