・・・出口の近くで太い首を持った背広服の肩が私の前へ立った。私はそれが音楽好きで名高い侯爵だということをすぐ知った。そしてその服地の匂いが私の寂寥を打ったとき、何事だろう、その威厳に充ちた姿はたちまち萎縮してあえなくその場に仆れてしまった。私は私・・・ 梶井基次郎 「器楽的幻覚」
・・・そして男子の太い声と婦人の清く澄んだ声と相和して、肉声の一高一低が巧妙な楽器に導かれるのです、そして「たえなるめぐみ」とか「まことのちから」とか「愛の泉」とかいう言葉をもって織り出された幾節かの歌を聞きながら立っていますと、総身に、ある戦慄・・・ 国木田独歩 「あの時分」
・・・ 老人は、机のはしに、丸い爪を持った指の太い手をついて、急に座ると腰掛が毀れるかのように、腕に力を入れて、恐る/\静かに坐った。 朝鮮語の話は、傍できいていると、癇高く、符号でも叫んでいるようだった。滑稽に聞える音調を、老人は真面目・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・それから一番太い手元の処を見るとちょいと細工がある。細工といったって何でもないが、ちょっとした穴を明けて、その中に何か入れでもしたのかまた塞いである。尻手縄が付いていた跡でもない。何か解らない。そのほかには何の異ったこともない。 「随分・・・ 幸田露伴 「幻談」
・・・床屋さんは瘤の多いグル/\頭の、太い眉をした元船員の男だった。三年食っていると云った。出たくないかときくと、なアに長い欧州航路を上陸をせずに、そのまゝ二三度繰りかえしていると思えば何んでもない、と云って笑った。「アパアト住い」と云い、又・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・初めて先生が小諸へ移って来た時は、その太い格子の嵌った窓と重い扉のある城門の楼上が先生の仮の住居であったという話をして聞かせた――丁度、先生はお伽話でもして聞かせるように。 坂道を上ると、大手の跡へ出る。士族地の方へ行く細い流がその辺の・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・その第一行から、すでに天にもとどく作者の太い火柱の情熱が、私たち凡俗のものにも、あきらかに感取できるように思われます。訳者、鴎外も、ここでは大童で、その訳文、弓のつるのように、ピンと張って見事であります。そうして、訳文の末に訳者としての解説・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・そして、ついぞ父親の行かれた事のない勝手口の方に、父の太い皺枯れた声がする。田崎が何か頻りに饒舌り立てて居る。毎朝近所から通って来る車夫喜助の声もする。私は乳母が衣服を着換えさせようとするのも聞かず、人々の声する方に馳け付けたが、上框に懐手・・・ 永井荷風 「狐」
・・・毛繻子のくけ紐は白粉の上にくっきりと強い太い線を描いて居る。削った長い木の杖を斜について危げに其足駄を運んで行く。上部は荷物と爪折笠との為めに図抜けて大きいにも拘らず、足がすっとこけて居る。彼等の此の異様な姿がぞろぞろと続く時其なかにお石が・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・――おい僕の腕は太いだろう」と圭さんは突然腕まくりをして、黒い奴を碌さんの前に圧しつけた。「君の腕は昔から太いよ。そうして、いやに黒いね。豆を磨いた事があるのかい」「豆も磨いた、水も汲んだ。――おい、君粗忽で人の足を踏んだらどっちが・・・ 夏目漱石 「二百十日」
出典:青空文庫