・・・緑も添い、花も白く咲き出る頃は、いかにも清い秋草の感じが深い。この薫が今は花のさかりである。そう言えば、長く都会に住んで見るほどのもので、町中に来る夏の親しみを覚えないものはなかろうが、夏はわたしも好きで、種々な景物や情趣がわたしの心を楽し・・・ 島崎藤村 「秋草」
・・・それには深いわけがありました。王さまは、お若いときに、よその国を攻めほろぼして王をお殺しになりました。その王には一人の王女がありました。王さまは、それを自分の王妃にしようとなさいました。そうすると、王女はこっそりどこかへ遁げてしまって、それ・・・ 鈴木三重吉 「黄金鳥」
・・・その百姓は深い所にはいって、頭の上に六尺も土のある様子はまるで墓のあなの底にでもいるようでした。 あなの中にいて、大空も海も牧場も見ないこんな人こそは、きっと天国に行きたいにちがいないと思いましたから、鳩は木の枝の上で天国の歓喜を鳩らし・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:有島武郎 「真夏の夢」
・・・今は唖の末娘が両親の深い心がかりとなっています。世の中の人は、皆、彼女が物を云わないので、ちっとも物に感じない、とでも思っているようでした。彼女の行末のことだの、心配だのを、彼女の目の前で平気に論判します。スバーは、極く小さい子供の時から、・・・ 著:タゴールラビンドラナート 訳:宮本百合子 「唖娘スバー」
・・・長女は、思いやりの深い子であるから、末弟のこの失敗を救済すべく、噴き出したいのを我慢して、気を押し沈め、しずかに語った。「ただいまお話ございましたように、その老博士は、たいへん高邁のお志を持って居られます。高邁のお志には、いつも逆境がつ・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・かれは急に深い悲哀に打たれた。 草叢には虫の声がする。故郷の野で聞く虫の声とは似もつかぬ。この似つかぬことと広い野原とがなんとなくその胸を痛めた。一時とだえた追懐の情が流るるように漲ってきた。 母の顔、若い妻の顔、弟の顔、女の顔が走・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・特許局に隠れていた足掛け八年の地味な平和の生活は、おそらく彼のとっては意義の深いものであったに相違ないが、ともかくも三十一にして彼は立って始めて本舞台に乗り出した訳である。一九一一年にはプラーグの正教授に招聘され、一九一二年に再びチューリヒ・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・もちろん私自身はそれらのことに深い考慮を費やす必要を感じなかった。私は私であればそれでいいと思っていた。私の子供たちはまた彼ら自身であればいいわけであった。そして若い時から兄夫婦に育てられていた義姉の姪に桂三郎という養子を迎えたからという断・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・されば昔のままなる庭の石には苔いよいよ深く、樹木の陰はいよいよ暗く、その最も暗い木立の片隅の奥深いところには、昔の屋敷跡の名残だという古井戸が二ツもあった。その中の一ツは出入りの安吉という植木屋が毎年々々手入の松の枯葉、杉の折枝、桜の落葉、・・・ 永井荷風 「狐」
・・・みんな唄の疲が出たせいか深い思に沈んだようにして首をかしげて居る。太十は尚お去ろうともしなかった。突然戸が開いた。太十は驚いて身を引いた。其機会に流し元のどぶへ片足を踏ん込んだ。戸を開けたのは茶店の女房であった。太十は女房を喚び挂けて盥を借・・・ 長塚節 「太十と其犬」
出典:青空文庫