・・・ と言って、夫をぶつ真似をして、さっと蚊帳から出て、私の部屋の蚊帳にはいり、長男と次女のあいだに「小」の字の形になって寝るのでした。 でも、私は、それだけでも夫に甘えて、話をして笑い合う事が出来たのがうれしく、胸のしこりも、少し溶け・・・ 太宰治 「おさん」
・・・断髪の少女が長い袖で日本髪の少女をぶつ真似をした。「私がするわよ。ねえ、私、だめ?」「ふたり一緒がいい。」 私は、酒も飲まぬうちに酔っぱらっていた。「あら! 欲ばりねえ。」 断髪が私をにらんだ。「いや、慈悲ぶかいんだ。」・・・ 太宰治 「断崖の錯覚」
・・・頭脳が火のように熱して、顳がはげしい脈を打つ。なぜ、病院を出た? 軍医があとがたいせつだと言ってあれほど留めたのに、なぜ病院を出た? こう思ったが、渠はそれを悔いはしなかった。敵の捨てて遁げた汚い洋館の板敷き、八畳くらいの室に、病兵、負傷兵・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・始めて、幾何学のピタゴラスの定理に打つかった時にはそれでも三週間頭をひねったが、おしまいには遂にその証明に成効した。論理的に確実なある物を捕える喜びは、もうこの頃から彼のうら若い頭に滲み渡っていた。数理に関する彼の所得は学校の教程などとは無・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・でも曲の体裁を知るためと思って我慢して聞いていると、店員が何かぐあいでも直すためか、プラグを勝手に抜いたりまたさしたりするのでせっかくのシンフォニーは無残にもぶつ切れになってしまった。 こんな行きがかりで自然ラディオというものに対する一・・・ 寺田寅彦 「路傍の草」
・・・道太はいたるところで少年時代の自分の惨めくさい姿に打つかるような気がしたが、どこも昔ながらの静かさで、近代的産業がないだけに、発展しつつある都会のような混乱と悪趣味がなかった。帰るたびに入りつけた料理屋へついて、だだっ広い石畳の入口から、庭・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・父は出入りの下役、淀井の老人を相手に奥の広間、引廻す六枚屏風の陰でパチリパチリ碁を打つ。折々は手を叩いて、銚子のつけようが悪いと怒鳴る。母親は下女まかせには出来ないとて、寒い夜を台所へと立って行かれる。自分は幼心に父の無情を憎く思った。・・・ 永井荷風 「狐」
・・・気に入らぬことがあれば独でぶつぶつと怒って居る。そうした時は屹度上脣の右の方がびくびくと釣って恐ろしい相貌になる。彼の怒は蝮蛇の怒と同一状態である。蝮蛇は之を路傍に見出した時土塊でも木片でも人が之を投げつければ即時にくるくると捲いて決して其・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・と髯ある人が軽く膝頭を打つ。「刹那に千金を惜しまず」と髯なき人が葉巻の飲み殻を庭先へ抛きつける。隣りの合奏はいつしかやんで、樋を伝う雨点の音のみが高く響く。蚊遣火はいつの間にやら消えた。「夜もだいぶ更けた」「ほととぎすも鳴かぬ」・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・私は扉に打つかった。私はまた体を一つのハンマーの如くにして、隣房との境の板壁に打つかった。私は死にたくなかったのだ。死ぬのなら、重たい屋根に押しつぶされる前に、扉と討死しようと考えた。 私は怒号した。ハンマーの如く打つかった。両足を揃え・・・ 葉山嘉樹 「牢獄の半日」
出典:青空文庫