・・・彼が何々をしようと思うことは脳細胞の意志を刺戟しない部分を通って抜けてゆくのらしかった。結局彼はいつまで経ってもそこが動けないのである。―― 主婦はもう寝ていた。生島はみしみし階段をきしらせながら自分の部屋へ帰った。そして硝子窓をあけて・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・ それで今、すこしく端緒をここに開いて、秋から冬へかけての自分の見て感じたところを書いて自分の望みの一少部分を果したい。まず自分がかの問に下すべき答は武蔵野の美今も昔に劣らずとの一語である。昔の武蔵野は実地見てどんなに美であったことやら・・・ 国木田独歩 「武蔵野」
・・・この部分が豊かであるだけ、それは青春らしいのだ。それが青春の幸福をつくるのだ。青春は浪曼性とともにある。未知と被覆とを無作法にかなぐり捨てて、わざと人生の醜悪を暴露しようとする者には、青春も恋愛も顔をそむけ去るのは当然なことである。・・・ 倉田百三 「学生と生活」
・・・すべてがかたまりついた雪と氷ばかりだ。部分部分が白く、きらきらと光っていた。 また、きしきしという軋りが聞えて、氷上蹄鉄を打ちつけられた馬が、氷を蹴る音がした。「来ているぞ。また、来ているぞ」 ワーシカは、二重硝子の窓に眼をより・・・ 黒島伝治 「国境」
・・・少しく小説の数をかけて読んだお方が、ちょっと瞑目して回想なさったらば、馬琴前後および近時の写実的傾向を帯びた小説等の主人公や副主人公や、事件の首脳なんどが、いかに多く馬琴の著わした小説中の枝葉の部分に見出さるるかという点には必ず御心づきにな・・・ 幸田露伴 「馬琴の小説とその当時の実社会」
・・・谷の一つの浅い部分は耕されて旧士族地を取囲いているが、その桑畠や竹薮を背にしたところに桜井先生の住居があった。先生はエナアゼチックな手を振って、大尉と一緒に松林の多い谷間の方へ長大な体躯を運んで行った。 谷々は緑葉に包まれていた。二人は・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・ある部分は道理だとも思うが、ある部分は明らかに他人の死殻の中へ活きた人の血を盛ろうとする不法の所為だと思う。道理だと思う部分も、結局は半面の道理たるに過ぎないから、矛盾した他の半面も同じように真理だと思う。こういう次第で心内には一も確固不動・・・ 島村抱月 「序に代えて人生観上の自然主義を論ず」
・・・ この大きな被害も、つまり大部分が火災から来たわけで、ただ地震だけですんだのならば、東京での死人もわずか二、三千人ぐらい、家屋その他の損害も八、九十分の一ぐらいにとどまったろうということです。 地震の、東京での発震は、九月一日の午前・・・ 鈴木三重吉 「大震火災記」
・・・ 気がついてみると、その作品の大部分は、「旅」に於ける収穫のように見受けられるのだ。 第三巻の後記に於て、私は井伏さんと早稲田界隈との因果関係に触れたが、その早稲田界隈に優るとも劣らぬ程のそれこそ「宿命的」と言ってもいいくらいの・・・ 太宰治 「『井伏鱒二選集』後記」
・・・けれどこの三箇の釜はとうていこの多数の兵士に夕飯を分配することができぬので、その大部分は白米を飯盒にもらって、各自に飯を作るべく野に散った。やがて野のところどころに高粱の火が幾つとなく燃された。 家屋の彼方では、徹夜して戦場に送るべき弾・・・ 田山花袋 「一兵卒」
出典:青空文庫