・・・ただレニンの仕事はどこまでが成効であるか失敗であるか、おそらくはこれは誰にもよく分らないだろうが、アインシュタインの仕事は少なくも大部分たしかに成効である。これについては世界中の信用のある学者の最大多数が裏書をしている。仕事が科学上の事であ・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・ 沼地などの多い、土地の低い部分を埋めるために、その辺一帯の砂がところどころ刳り取られてあった。砂の崖がいたるところにできていた。釣に来たときよりは、浪がやや荒かった。「この辺でも海の荒れることがあるのかね」「それあありますとも・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・宗教と宗教――数え立つれば際限がない。部分は部分において一になり、全体は全体において一とならんとする大渦小渦鳴戸のそれも啻ならぬ波瀾の最中に我らは立っているのである。この大回転大軋轢は無際限であろうか。あたかも明治の初年日本の人々が皆感激の・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
・・・ ジャズを踊る踊子は戦争前には腰と乳房とを隠していたのであるが、モデルが出るようになってから、それも出来得るかぎり隠す部分の少いように仕立てたものを附けるので、後や横を向いた時には真裸体のように見えることがある。昨年正月から二月を過ぎ三・・・ 永井荷風 「裸体談義」
・・・白い部分まで歯の跡のついた西瓜の皮が番小屋の外へ投げられた。太十は指で弾いて見て此は甘いと自慢をいいながらもいで来ることもあった。暑い日に照られて半分は熱い西瓜でもすぐに割られるのであった。太十の鬱いで居る容子は対手にもわかった。「おっ・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・以前文芸は道徳を超絶するという議論があり、またこれを論じた大家もあったのでありますけれども、これは大なる間違で、なるほど道徳と文芸は接触しない点もあるけれども、大部分は相連っている。ただ僅かに倫理と芸術と両立せないで、どちらかを捨てねばなら・・・ 夏目漱石 「教育と文芸」
・・・そして感情するためには、ニイチェの言葉の中から、すべての省略された意味、即ち彼の慣用する音楽術語で言ふ Con motoの部分を、自分で直感的に会得せねばならない。そして此処に、彼の理解への最も困難な鍵がある。たしかに人の言ふ如く、カントの・・・ 萩原朔太郎 「ニイチェに就いての雑感」
・・・その蓋から一方へ向けてそれで蔽い切れない部分が二三尺はみ出しているようであった。だが、どうもハッキリ分らなかった。何しろ可成り距離はあるんだし、暗くはあるし、けれども私は体中の神経を目に集めて、その一固りを見詰めた。 私は、ブルブル震え・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・然らば即ち今日の女大学は小説に非ず、戯作に非ず、女子教育の宝書として、都鄙の或る部分には今尚お崇拝せらるゝものにてありながら、宝書中に記す所は明かに現行法律に反くもの多し。其の民心に浸潤するの結果は、人を誤って法の罪人たらしむるに至る可し。・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・〔『日本』明治三十二年三月二十六日〕『古今集』以後今日に至るまでの撰集、家集を見るに、いずれも四季の歌は集中の最要部分を占めて、少くも三分の一、多きは四分の三を占むるものさえあり。これに反して四季の歌少く、雑の歌の著く多きを『万葉集・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
出典:青空文庫