・・・皆泥にまぶれて居る者ばかりだ。泥の臭いは紛々と鼻を衝いて来る。満面皆泥のこのけしきを見て先ず心持が悪くなって来た。 少し休んで居る内背中がぞくぞくと寒くなって来ていよいよ不愉快だ。まぎらかしに歌でも作ろうと相談して三人がだまって考えこん・・・ 正岡子規 「車上の春光」
・・・一日の炎天を草鞋の埃りにまぶれながら歩いてようよう宿屋に着いた時はただ労れに労れて何も仕事などの出来る者ではない。風呂に入って汗を流し座敷に帰って足を延べた時は生き返ったようであるが、同時に草臥れが出てしもうて最早筆を採る勇気はない。其処で・・・ 正岡子規 「徒歩旅行を読む」
・・・王さまの新らしい命令のさきぶれでした。「そら、あたらしいご命令だ。」と、あまがえるもとのさまがえるも、急いでしゃんと立ちました。かたつむりの吹くメガホーンの声はいともほがらかにひびきわたりました。「王さまの新らしいご命令。王さまの新・・・ 宮沢賢治 「カイロ団長」
・・・「大丈夫だよ、俥でおいでね、くたぶれちゃうよ。一里半もあるんだってからさ」「お前傘は?」「いいよ、平気」「どうせ家へかえるんだもんね」「あああ家へかえるんだもの」 婆さんは、偶然の隣人である私の風体を暫く観察していた・・・ 宮本百合子 「一隅」
・・・さきにのりし箱に比ぶれば、はるかに勝れり。固より撥条なきことは同じけれど、壁なく天井なきために、風のかよいよくて心地あしきことなし。碓氷嶺過ぎて横川に抵る。嶺の路ここかしこに壊れたるところ多かりしが、そは皆かりに繕いたれば車通いしなり。横川・・・ 森鴎外 「みちの記」
出典:青空文庫