・・・とか「農村の文化」とか、農村を都市に対立させて、農民は、農民独自の力によって解放され得るが如く考えている無政府主義的な単農主義者等の立場とは、最初の出発からその方向を異にしていた。農民生活を題材としても、その文学のねらう、主要なポイントは、・・・ 黒島伝治 「農民文学の問題」
・・・イヤでも黴臭いものを捻くらなければ、いつも定まりきった書物の中をウロツイている訳になるから、美術だの、歴史だの、文芸だの、その他いろいろの分科の学者たちも、ありふれた事は一ト通り知り尽して終った段になると、いつか知らぬ間に研究が骨董的に入っ・・・ 幸田露伴 「骨董」
・・・今日は市立つ日とて、秤を腰に算盤を懐にしたる人々のそこここに行きかい、糸繭の売買に声かしましく罵り叫く。文化文政の頃に成りたる風土記稿にしるせる如く、今も昔の定めを更えで二七の日をば用いるなるべし。昼餉を終えたれど暑さ烈しければ、二時過ぐる・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・正平の十九年に此処の道祐というものの手によって論語が刊出され、其他文選等の書が出されたことは、既に民戸の繁栄して文化の豊かな地となっていたことを語っている。山名氏清が泉州守護職となり、泉府と称して此処に拠った後、応永の頃には大内義弘が幕府か・・・ 幸田露伴 「雪たたき」
・・・髪を長く伸ばして、脊広、或いは着流し、およそ学生らしくない人たちばかりであったが、それでも皆、早稲田の文科生であったらしい。 どこまでも、ついて来る。じっさい、どこまでも、ついて来る。 そこで井伏さんも往生して、何とかという、名前は・・・ 太宰治 「『井伏鱒二選集』後記」
・・・白いコンクリートの門柱に蔦の新芽が這いのぼり、文化的であった。正門のすぐ向いに茅屋根の、居酒屋ふうの店があり、それが約束のミルクホールであった。ここで待って居れ、と言われた。かれは、その飲食店の硝子戸をこじあけるのに苦労した。がたぴしして、・・・ 太宰治 「花燭」
・・・同年、弘前高等学校文科に入学。昭和五年同校卒業。同年、東京帝大仏文科に入学。若き兵士たり。恥かしくて死にそうだ。眼を閉じるとさまざまの、毛の生えた怪獣が見える。なあんてね。笑いながら厳粛のことを語る。と。「笠井一」にはじまり、「厳粛のこ・・・ 太宰治 「狂言の神」
・・・ 私のところへ、はじめてやって来た頃は、ふたり共、東京帝大の国文科の学生であった。三田君は岩手県花巻町の生れで、戸石君は仙台、そうして共に第二高等学校の出身者であった。四年も昔の事であるから、記憶は、はっきりしないのだが、晩秋の一夜、ふ・・・ 太宰治 「散華」
・・・私が弘前の高等学校を卒業し、東京帝大の仏蘭西文科に入学したのは昭和五年の春であるから、つまり、東京へ出て三年目に小説を発表したわけである。けれども私が、それらの小説を本気で書きはじめたのは、その前年からの事であった。その頃の事情を「東京八景・・・ 太宰治 「十五年間」
・・・君は、文科ですか? ことし卒業ですね?」 私は答えた。「いいえ。もう一年です。あの、いちど落第したものですから」「はあ、芸術家ですな」にこりともせず、おちついて甘酒をひと口すすった。「僕はそこの音楽学校にかれこれ八年います。なかなか・・・ 太宰治 「ダス・ゲマイネ」
出典:青空文庫