・・・――この列車は、米原で一体分身して、分れて東西へ馳ります。 それが大雪のために進行が続けられなくなって、晩方武生駅(越前へ留ったのです。強いて一町場ぐらいは前進出来ない事はない。が、そうすると、深山の小駅ですから、旅舎にも食料にも、乗客・・・ 泉鏡花 「雪霊続記」
・・・片口は無いと見えて山形に五の字の描かれた一升徳利は火鉢の横に侍坐せしめられ、駕籠屋の腕と云っては時代違いの見立となれど、文身の様に雲竜などの模様がつぶつぶで記された型絵の燗徳利は女の左の手に、いずれ内部は磁器ぐすりのかかっていようという薄鍋・・・ 幸田露伴 「貧乏」
・・・隣りに坐りし静岡の商人二人しきりに関西の暴風を語り米相場を説けば向うに腰かけし文身の老人御殿場の料理屋の亭主と云えるが富士登山の景況を語る。近頃は西洋人も婦人まで草鞋にて登る由なりなどしきりに得意の様なりしが果ては問わず語りに人の難儀をよそ・・・ 寺田寅彦 「東上記」
・・・ 般若の留さんというのは背中一面に般若の文身をしている若い大工の職人で、大タブサに結った髷の月代をいつでも真青に剃っている凄いような美男子であった。その頃にはまだ髷に結っている人も大分残ってはいたが、しかし大方は四十を越した老人ばかりな・・・ 永井荷風 「伝通院」
・・・川添いの小家の裏窓から、いやらしい姿をした女が、文身した裸体の男と酒を呑んでいるのが見える。水門の忍返しから老木の松が水の上に枝を延した庭構え、燈影しずかな料理屋の二階から芸者の歌う唄が聞える。月が出る。倉庫の屋根のかげになって、片側は真暗・・・ 永井荷風 「深川の唄」
・・・のきまった男との間に在るいきさつとは異った気分、より圧迫の少い、女としてより負担と責任との軽い、それゆえより人間として自分を溌剌とさせると感じられる気分だけを主観的に求めて、友情というものの責任観を十分身につけていないところから生じていると・・・ 宮本百合子 「異性の友情」
・・・けれども、この文学をして文学たらしめる一筋の道が果してめいめいの創作過程のなかで今日十分身につけつくされているであろうか。青野季吉氏が二月の『中央公論』に「作家の凝視」ということを書いていられる。現実を凝視する粘りづよさを作家に求めているの・・・ 宮本百合子 「作家に語りかける言葉」
・・・その一銭に登場したのは若い勤労婦人の三分身像であった。白い布で頭をくるみ、作業服に白いカラーを見せ、優しくしっかりした横顔を見せている遠景には、何か工具らしいものが覗いている。女子の能力は男子の七十パーセント以上である、近代重工業にもふさわ・・・ 宮本百合子 「郵便切手」
・・・想うにこの文を読むものは予に対って、汝は汝の分身たる鴎外の死んだのを見て、奈何の観を作すかと問うであろう。予はただ笑止に思うに過ぎぬ。予はただここに一いっしゅの香を拈ってこれを弔するに過ぎぬ。予にしてもし彼の偽の幸福のために、別方面の種々の・・・ 森鴎外 「鴎外漁史とは誰ぞ」
出典:青空文庫