・・・そのうちに足もくたびれてくれば、腹もだんだん減りはじめる、――おまけに霧にぬれ透った登山服や毛布なども並みたいていの重さではありません。僕はとうとう我を折りましたから、岩にせかれている水の音をたよりに梓川の谷へ下りることにしました。 僕・・・ 芥川竜之介 「河童」
・・・が、庚申堂を通り過ぎると、人通りもだんだん減りはじめた。僕は受け身になりきったまま、爪先ばかり見るように風立った路を歩いて行った。 すると墓地裏の八幡坂の下に箱車を引いた男が一人、楫棒に手をかけて休んでいた。箱車はちょっと眺めた所、肉屋・・・ 芥川竜之介 「年末の一日」
・・・蝋は減りつくした。火が消えた。幾十日の間、黒闇の中に体を投げだしていたような状態が過ぎた。やがてその暗の中に、自分の眼の暗さに慣れてくるのをじっと待っているような状態も過ぎた。 そうして今、まったく異なった心持から、自分の経てきた道筋を・・・ 石川啄木 「弓町より」
・・・数は増しもせず、減りもせず、同じく十五、六羽どまりで、そのうちには、芽が葉になり、葉が花に、花が実になり、雀の咽が黒くなる。年々二、三度おんなじなのである。 ……妙な事は、いま言った、萩また椿、朝顔の花、露草などは、枝にも蔓にも馴れ馴染・・・ 泉鏡花 「二、三羽――十二、三羽」
・・・ ひと頃上海くずれもいて十五人の踊子が、だんだん減り、いまの三人は土地の者ばかりである。ことしの始め、マネージャが無理に説き伏せて踊子に仕込んだのだが、折角体が柔くなったところで、三人は転業を考えだしている。阪神の踊子が工場へはいったと・・・ 織田作之助 「雪の夜」
・・・ 二年、三年、田舎の生活に年期を入れてくるに従って、東京から送られる郵便物や、雑誌の数がすくなくなって、その郵便物の減りかげんは、田舎への埋れようの程度を示す。自分がここにいるということを人に知られずに、垣間から舞台をのぞき見するのはこ・・・ 黒島伝治 「田舎から東京を見る」
・・・彼女の周囲にあった親しい人達は、一人減り、二人減り、長年小山に出入してお家大事と勤めて呉れたような大番頭の二人までも早やこの世に居なかった。彼女は孤独で震えるように成ったばかりでなく、もう長いこと自分の身体に異状のあることをも感じていた。彼・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・短い時間には脈搏が尺度になり、もう少し長い時間の経過は腹の減り方や眠けの催しが知らせる。地下の坑道にいて日月星辰は見えなくてもこれでいくぶんの見当はわかるであろう。質量と力の計測にも必ずしも秤はいらない。われわれの筋肉の緊張感覚がそれに役立・・・ 寺田寅彦 「映画の世界像」
・・・そう思う事によってこの国土に対する自分の愛着の感情は増しても減りはしないような気がする。 最後に「長慶子」という曲を奏した。慶祝の意を表わしたもので、参会の諸員退出の時にこれを奏すと説明書にあったが、そのためか、奏楽中にがたがた席を立つ・・・ 寺田寅彦 「雑記(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・紅海は大陸の裂罅だとしいて思ってみても、眼前の大自然の美しさは増しても減りはしなかった。しかしそう思って連山をながめた時に「地球の大きさ」というものがおぼろげながら実認されるような気がした。四月二十八日 朝六時にスエズに着く。港の片・・・ 寺田寅彦 「旅日記から(明治四十二年)」
出典:青空文庫