・・・しかしその時もべそはかいたが、とうとう泣かずに駈け続けた。 彼の村へはいって見ると、もう両側の家家には、電燈の光がさし合っていた。良平はその電燈の光に、頭から汗の湯気の立つのが、彼自身にもはっきりわかった。井戸端に水を汲んでいる女衆や、・・・ 芥川竜之介 「トロッコ」
・・・良平もべそをかいたなり、やむを得ずそこへ出て行った。二人はたちまち取組み合いを始めた。顔を真赤にした金三は良平の胸ぐらを掴まえたまま、無茶苦茶に前後へこづき廻した。良平はふだんこうやられると、たいてい泣き出してしまうのだった。しかしその朝は・・・ 芥川竜之介 「百合」
・・・ お母さんは僕がべそをかき始めたのに気もつかないで、夢中になって八っちゃんの世話をしていなさった。婆やは膝をついたなりで覗きこむように、お母さんと八っちゃんの顔とのくっつき合っているのを見おろしていた。 その中に八っちゃんが胸にあて・・・ 有島武郎 「碁石を呑んだ八っちゃん」
・・・ 谷間の卵塔に、田沢氏の墓のただ一基苔の払われた、それを思え。「お爺さん、では、あの女の持ものは、お産で死んだ記念の納ものででもあるのかい。」 べそかくばかりに眉を寄せて、「牡丹に立った白鷺になるよりも、人間は娑婆が恋しかん・・・ 泉鏡花 「燈明之巻」
・・・ ぎょっとしたろう、首をすくめて、泣出しそうに、べそを掻いた。 その時姉が、並んで来たのを、衝と前へ出ると、ぴったりと妹をうしろに囲うと、筒袖だが、袖を開いて、小腕で庇って、いたいけな掌をパッと開いて、鏃の如く五指を反らした。 ・・・ 泉鏡花 「若菜のうち」
・・・私は泣きべそかきました。駅は田畑の真中に在って、三島の町の灯さえ見えず、どちらを見廻しても真暗闇、稲田を撫でる風の音がさやさや聞え、蛙の声も胸にしみて、私は全く途方にくれました。佐吉さんでも居なければ、私にはどうにも始末がつかなかったのです・・・ 太宰治 「老ハイデルベルヒ」
・・・ 夫は泣きべそに似た笑い顔をつくって、そう言いました。 私は、ぎょっとしましたが、しいて平気を装って、「まあ、素早い。」「そこが、ピストル強盗よりも凄いところさ。」 その女のひとのために、内緒でお金の要る事があったのに違・・・ 太宰治 「おさん」
・・・少年も、その輝くほどの外套を着ながら、流石に孤独寂寥の感に堪えかね、泣きべそかいてしまいました。お洒落ではあっても、心は弱い少年だったのです。とうとうその苦心の外套をも廃止して、中学時代からのボロボロのマントを、頭からすっぽりかぶって、喫茶・・・ 太宰治 「おしゃれ童子」
・・・科学者としての私の道を、はじめからひとりで歩いていたつもりなのに、どうしてこう突然に、失敬な、いまわしい決闘の申込状やら、また四十を越した立派な男子が、泣きべそをかいて私の部屋にとびこんで来たり、まるで、私ひとりがひどい罪人であるかのように・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・君は泣きべそを掻くぜ。「汝ら、見られんために己が義を人の前にて行わぬように心せよ。」どうですか。よく考えてもらいたい。出来ますか。せめて誠実な人間でだけありたい等と、それが最低のつつましい、あきらめ切った願いのように安易に言っている恐ろしい・・・ 太宰治 「風の便り」
出典:青空文庫