・・・ 菊子さん、私はいま此の手紙を書き写しながら何度も何度も泣きべそをかきました。全身に油汗がにじみ出る感じ。お察し下さい。私、間違っていたのよ。私の事なんか書いたんじゃ無かったのよ。てんで問題にされていなかったのよ。ああ恥ずかしい、恥ずか・・・ 太宰治 「恥」
・・・ 笠井さんは、それまでの不断の地味な努力を、泣きべそかいて放擲し、もの狂おしく家を飛び出し、いのちを賭して旅に出た。もう、いやだ。忍ぶことにも限度が在る。とても、この上、忍べなかった。笠井さんは、だめな男である。「やあ、八が岳だ。やつが・・・ 太宰治 「八十八夜」
・・・節子は一瞬泣きべそに似た表情をするが、無理に笑って、残りの五円紙幣をも勝治の掌に載せてやる。「サアンキュ!」勝治はそう言う。節子のお小使は一銭も残らぬ。節子は、その日から、やりくりをしなければならぬ。どうしても、やりくりのつかなくなった・・・ 太宰治 「花火」
・・・しばらく、手帖のその文面を見つめ、ふっと窓のほうに顔をそむけ、熟柿のような醜い泣きべその顔になる。 さて、汽車は既に、静岡県下にはいっている。 それからの鶴の消息に就いては、鶴の近親の者たちの調査も推測も行きとどかず、どうもはっきり・・・ 太宰治 「犯人」
・・・ 私は、泣きべその気持の時に、かえって反射的に相手に立向う性癖を持っているようです。 私はすぐ立って背広に着換え、私の方から、その若い記者をせき立てるようにして家を出ました。 冬の寒い朝でした。私はハンカチで水洟を押えながら、無・・・ 太宰治 「美男子と煙草」
・・・ やどりぎが、上でべそをかいたようなので、タネリは高く笑いました。けれども、その笑い声が、潰れたように丘へひびいて、それから遠くへ消えたとき、タネリは、しょんぼりしてしまいました。そしてさびしそうに、また藤の蔓を一つまみとって、にちゃに・・・ 宮沢賢治 「タネリはたしかにいちにち噛んでいたようだった」
・・・ やどり木は黄金色のべそをかいて青いそらをまぶしそうに見ながら「さよなら。」と答えました。 若い木霊は思わず「アハアハハハ」とわらいました。その声はあおぞらの滑らかな石までひびいて行きましたが又それが波になって戻って来たとき木霊はド・・・ 宮沢賢治 「若い木霊」
・・・二つ三つの時分、そうやってだかれていて、小さい孫はおしっこがしたくてべそをかき出した。その顔つきでびっくりしたお祖父さんは、耳が遠いものだから孫が泣くにつれて赤く塗ったブリキの太鼓を叩き立てる。孫はいやが上にも泣きしきって、とうとうお祖父さ・・・ 宮本百合子 「繻珍のズボン」
・・・の字形にして居るので何だかべそを掻てる様に見える。耳のわれそうな声で話すが、自分は非常に耳が遠い。十近く年上の祖母から「耳が遠いよ」と云われるほどである。随分長い間、今小学校の校長の居る処に住んで居て、畑や米の世話をして居たが、気の勝った年・・・ 宮本百合子 「農村」
・・・いやだとお思いになることがあったら、どんなにべそをかいてもいいから、云って頂戴。腹の中で、ひろ子というのはこういうんだな、なんかと思わないでね」「いつか、そう思ったことがあったかい?」「これまではなかったわ。段々いそがしくおなりにな・・・ 宮本百合子 「風知草」
出典:青空文庫