・・・自分は教会の門前で柩車を出迎えた後霊柩に付き添って故人の勲章を捧持するという役目を言いつかった。黒天鵞絨のクションのまん中に美しい小さな勲章をのせたのをひもで肩からつり下げそれを胸の前に両手でささげながら白日の下を門から会堂までわずかな距離・・・ 寺田寅彦 「B教授の死」
・・・この人はジューリングと一緒に気球で成層圏の根元に近づき一時失神しながらも無事に着陸したという経験をもっていて、搭乗気球としての最高のレコードの保持者であった。鉄道幹線から分れた田舎廻りの支線、いわゆるクラインバーンの汽車の呑気なのに驚いたの・・・ 寺田寅彦 「ベルリン大学(1909-1910)」
・・・もし充分気力が強くて、いわゆる腹がしっかりしていて、その緊張状態を一様に保持し得られる場合にはなんでもない。しかしからだの病弱、気力の薄弱なためにその緊張の持続に堪え得ない時には知らず知らず緊張がゆるもうとする。これを引き締めようとする努力・・・ 寺田寅彦 「笑い」
・・・ それから、つい近年まで、法事のあるたんびに、日が同じだからと云うんで、忰の方も一緒にお供養下すって、供物がお国の方から届きましたが、私もその日になると、百目蝋燭を買って送ったり何かしたこともござえんしたよ。 ……それで仲間の奴等時・・・ 徳田秋声 「躯」
・・・世態人情の変化は漸く急激となったが、しかし吉原の別天地はなお旧習を保持するだけの余裕があったものと見え、毎夜の張見世はなお廃止せられず、時節が来れば桜や仁和賀の催しもまたつづけられていた。 わたくしはこの年から五、六年、図らずも旅の人と・・・ 永井荷風 「里の今昔」
・・・を草しつつあった際、一面識もない人が時々書信又は絵端書抔をわざわざ寄せて意外の褒辞を賜わった事がある。自分が書いたものが斯んな見ず知らずの人から同情を受けて居ると云う事を発見するのは非常に難有い。今出版の機を利用して是等の諸君に向って一言感・・・ 夏目漱石 「『吾輩は猫である』上篇自序」
・・・殺すという言葉には、殺されるものに対して、殺すという立場において、自己の生存保持の意識が潜在している。鈴木文史朗はついこの間アメリカへ行ってリーダーズ・ダイジェスト本社の立派なことを日本に吹聴したが、彼はアメリカで何を学び、どう語ることを学・・・ 宮本百合子 「鬼畜の言葉」
・・・ ところで、十三日は母の命日故、一睡もしないうち林町へ法事に出かけ前後一週間、眠ったのかおきたのか分らぬ勢で仕事をしたためすっかり疲れ、未だに体がすこし参って居ります。 手紙は大変御無沙汰になって日づけを見ると、殆ど一ヵ月近くかかな・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
・・・政府は自身の権力を保持したいために、私ども日本人すべてが持っている新しいいろいろの可能性へのきりかえを、非常に嫌っています。それはこんどの憲法を見てもよくわかることですけれども、ああいう「主権在民」の中途はんぱな扱いかたは、私どもが民主を求・・・ 宮本百合子 「一九四六年の文壇」
・・・その勢力は、表面ブルジョア民主主義の建設をいい、国際平和のスローガンをかかげ、国内の抵抗力をよわめて、自分の権力保持に役立つ他国の勢力と結合し、そのために役立つことで、存続の保証を得ようとしている。日本のすべての心に戦争の恐怖があり、ファシ・・・ 宮本百合子 「平和への荷役」
出典:青空文庫