・・・ 見ない前にはさだめて目ざわりになるだろうと予期していた人形使いの存在が、はじめて見たときからいっこう邪魔に感ぜられなかったのは全くこの尺度の関係からくる錯覚のおかげらしい。黒子を着た助手などはほとんどただぼやけた陰影ぐらいにしか見えな・・・ 寺田寅彦 「生ける人形」
・・・衣服の左前なくらいはいいとしても、また髪の毛のなでつけ方や黒子の位置が逆になっているくらいはどうでもなるとしても、もっと微細な、しかし重要な目の非対称や鼻の曲がりやそれを一々左右顛倒して考えるという事は非常に困難な事である。要するに一面の鏡・・・ 寺田寅彦 「自画像」
・・・その際に、もしかこれが旧劇だと、例えば河内山宗俊のごとく慌てて仰山らしく高頬のほくろを平手で隠したりするような甚だ拙劣な、友達なら注意してやりたいと思うような挙動不審を犯すのであるが、ここはさすがに新劇であるだけに、そういう気の利かない失策・・・ 寺田寅彦 「初冬の日記から」
・・・かかる場合に用意する黄楊の小櫛を取って先ず二、三度、枕のとがなる鬢の後毛を掻き上げた後は、捻るように前身をそらして、櫛の背を歯に銜え、両手を高く、長襦袢の袖口はこの時下へと滑ってその二の腕の奥にもし入黒子あらば見えもやすると思われるまで、両・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・ 黒子だらけの顔 いま住んでいる家で二階の南縁に立つと、幾重か屋根瓦の波の彼方に八年ばかり前にいた家の屋根が見える。その家も南向きで、こちらも南があいているから、ひょっとした折、元の家の二階の裏側の一部を眺める・・・ 宮本百合子 「犬三態」
・・・ 黒板に何か書いたチョークを、両手の指先に持ち、眉間に一つ大きな黒子のある、表情の重味ある顔を、心持右か左に傾けながら、何方かと云うと速口な、然し聞とり易い落付いたアルトの声で、全心を注ぎ、講義された俤が、今に髣髴としている。 先生・・・ 宮本百合子 「弟子の心」
・・・四角ばって、頬骨の突出た骨相を彼も持ってはいるのだけれども、五十にやがて手が届こうとしている男だなどとはどうしても思えないほど若々しく真黒な瞳を慎ましく、けれどもちゃんと相手の顔に向けて、下瞼の大きな黒子を震わせながら、丁寧に口を利く彼の顔・・・ 宮本百合子 「禰宜様宮田」
・・・ 緑色の仕着せを着た音楽隊はフィガロの婚礼を奏し、飾棚にロココの女の入黒子で流眄する。無数の下駄の歯の音が日本的騒音で石の床から硝子の円天井へ反響した。 エスカレータアで投げ上げられた群集は、大抵建物の拱廊から下を覗いた。八階から段・・・ 宮本百合子 「未開な風景」
・・・ツウツウ――眉が引ける、鼻が出る、白い、気持好く力のこもったひたいがうかんで口が出来てそれからうす赤い線がこのまばたくまにならんだ小っぽけなものをかこんで、その線の上にあるお米つぶほどのほくろさえそえて――男のかおが出来上った。 そのう・・・ 宮本百合子 「芽生」
出典:青空文庫