・・・どういう訳か逗子へ半月ばかり行っていた時の事を半紙二帖ほどに書いたものが、今だに自分の手篋の底に保存されてある。成島柳北が仮名交りの文体をそのままに模倣したり剽窃したりした間々に漢詩の七言絶句を挿み、自叙体の主人公をば遊子とか小史とか名付け・・・ 永井荷風 「夏の町」
・・・暑い時には大切な毛皮が役に立たぬばかりでなく肉の保存も出来ないからである。太十はそれを知って居る。そうして肉の註文を受けたことが事実であるとすれば赤は到底助かれないと信じた。赤犬の肉は黴毒の患者に著しい効験があると一般に信ぜられて居るのであ・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・否彼の多年住み古した家屋敷さえ今なお儼然と保存せられてある。千七百八年チェイン・ロウが出来てより以来幾多の主人を迎え幾多の主人を送ったかは知らぬがとにかく今日まで昔のままで残っている。カーライルの歿後は有志家の発起で彼の生前使用したる器物調・・・ 夏目漱石 「カーライル博物館」
・・・これは友人滝君が京都大学で本邦美術史の講演を依託された際、聴衆に説明の必要があって、建築、彫刻、絵画の三門にわたって、古来から保存された実物を写真にしたものであるから、一枚一枚に観て行くと、この方面において、わが日本人が如何なる過去をわれわ・・・ 夏目漱石 「『東洋美術図譜』」
・・・要するに職業と名のつく以上は趣味でも徳義でも知識でもすべて一般社会が本尊になって自分はこの本尊の鼻息を伺って生活するのが自然の理である。 ただここにどうしても他人本位では成立たない職業があります。それは科学者哲学者もしくは芸術家のような・・・ 夏目漱石 「道楽と職業」
・・・種の保存本能!―― 私は高い窓の鉄棒に掴まりながら、何とも言えない気持で南瓜畑を眺めていた。 小さな、駄目に決まり切っているあの南瓜でも私達に較べると実に羨しい。 マルクスに依ると、風力が誰に属すべきであるか、という問題が、昔ど・・・ 葉山嘉樹 「牢獄の半日」
・・・たとえば、各地方に令して就学適齢の人員を調査し、就学者の多寡をかぞえ、人口と就学者との割合を比例し、または諸学校の地位・履歴、その資本の出処・保存の方法を具申せしめ、時としては吏人を地方に派出して諸件を監督せしむる等、すべて学校の管理に関す・・・ 福沢諭吉 「学問の独立」
・・・瘠我慢の一主義は固より人の私情に出ることにして、冷淡なる数理より論ずるときはほとんど児戯に等しといわるるも弁解に辞なきがごとくなれども、世界古今の実際において、所謂国家なるものを目的に定めてこれを維持保存せんとする者は、この主義に由らざるは・・・ 福沢諭吉 「瘠我慢の説」
・・・譬ば恋情の切なるものは能く人を殺すといえることを以て意と為したる小説あらんに、其の本尊たる男女のもの共に浮気の性質にて、末の松山浪越さじとの誓文も悉皆鼻の端の嘘言一時の戯ならんとせんに、末に至って外に仔細もなけれども、只親仁の不承知より手に・・・ 二葉亭四迷 「小説総論」
・・・人間の記憶は全く意志の掣肘を受けずに古い閲歴を堅固に保存して置くものである。そう云う閲歴は官能的閲歴である。オオビュルナンはマドレエヌの昔使っていた香水の匂い、それから手箱の蓋を取って何やら出したこと、それからその時の室内の午後の空気を思い・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
出典:青空文庫