・・・勿論小説家のことだから、女に惚れるほかは何もしない。ただ父蟹の一生を例に、善は悪の異名であるなどと、好い加減な皮肉を並べている。三男の蟹は愚物だったから、蟹よりほかのものになれなかった。それが横這いに歩いていると、握り飯が一つ落ちていた。握・・・ 芥川竜之介 「猿蟹合戦」
・・・踝くらいまでより水の来ない所に立っていても、その水が退いてゆく時にはまるで急な河の流れのようで、足の下の砂がどんどん掘れるものですから、うっかりしていると倒れそうになる位でした。その水の沖の方に動くのを見ていると眼がふらふらしました。けれど・・・ 有島武郎 「溺れかけた兄妹」
・・・無銭で米の買える法、火なくして暖まる法、飲まずに酔う法、歩行かずに道中する法、天に昇る法、色を白くする法、婦の惚れる法。」 四「お痛え、痛え、」 尾を撮んで、にょろりと引立てると、青黒い背筋が畝って、びくりと・・・ 泉鏡花 「露肆」
・・・ 豹吉はペッと唾を吐いて、「――女に惚れるのに、いちいち戸籍調べしてから惚れるくらいなら、俺ははじめから親の家を飛び出すもんか」 古綿をちぎって捨てるように言った。 口が腐っても、惚れているとは言わぬ積りだったが、この際は簡・・・ 織田作之助 「夜光虫」
・・・まさか私は、その話相手の女に、惚れるの惚れられるの、そんな馬鹿な事は考えませんが、どうも何だか心にこだわりが出て来るのです。窮屈なんです。どうしても、男同士で話合うように、さっぱりとはまいりません。自分の胸の中のどこかに、もやもやと濁ってい・・・ 太宰治 「嘘」
・・・「ひと目見てすぐ惚れるのも、そんな事でしょか」と女が問をかける。別に恥ずかしと云う気色も見えぬ。五分刈は向き直って「あの声は胸がすくよだが、惚れたら胸は痞えるだろ。惚れぬ事。惚れぬ事……。どうも脚気らしい」と拇指で向脛へ力穴をあけて見る。「・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・elongatedpot-hole〔ここがどうしてこう掘れるかわかりますか。石ころ、礫がこれを掘るのです。そら水のために礫がごろごろするでしょう。だんだん岩を掘るでしょう。深いところが一層深くなるはずです。もっと大きなのもあります。〕日・・・ 宮沢賢治 「台川」
・・・マリーナ・イワーノヴナは、彼がどんな女にでも惚れるのを馬鹿にしながら、憎んでいないのは明らかであった。彼女の浮々した毒舌に黙って微笑しつつ、ダーリヤは、新しく来た客のために茶を注ぎ、寝台の上へ引込んだ。彼女は、自分の前で跪いたり上靴へ接吻し・・・ 宮本百合子 「街」
・・・に聴き惚れる事だろう。 我土よ! 我が声よ! 私の家と云うのでもない。私の知人と云うのでもない。私の生れた土の持つ限りない「気分」が、我が故国よ! と云う一つの憧れになるのである。 生れて口が利けるように成って此方、私は随分沢山・・・ 宮本百合子 「無題」
出典:青空文庫