・・・習慣はすべての心を麻痺した。人は彼に揶揄うことを止めなかった。そうして彼の恐怖心を助長し且つ惑乱した。彼は全く孤立した。 其日は朝から焦げるように暑かった。太十は草刈鎌を研ぎすましてまだ幾らもなって居る西瓜の蔓をみんな掻っ切って畢った。・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・ この間帝国座の二宮君が来て、あなたの明治座の所感と云うものを読んだが、我々の神経は痲痺しているせいだか何だかあなたの口にするような非難はとうてい持ち出す余地がない、芝居になれたものの眼から見ると、筋なぞはどんなに無理だって、妙だって、・・・ 夏目漱石 「虚子君へ」
・・・金玉もただならざる貴重の身にして自らこれを汚し、一点の汚穢は終身の弱点となり、もはや諸々の私徳に注意するの穎敏を失い、あたかも精神の痲痺を催してまた私権を衛るの気力もなく、漫然世と推移りて、道理上よりいえば人事の末とも名づくべき政事政談に熱・・・ 福沢諭吉 「日本男子論」
○この頃は痛さで身動きも出来ず煩悶の余り精神も常に穏やかならんので、毎日二、三服の痲痺剤を飲んで、それでようよう暫時の痲痺的愉快を取って居るような次第である。考え事などは少しも出来ず、新聞をよんでも頭脳が乱れて来るという始末で、書くこと・・・ 正岡子規 「病牀苦語」
・・・キャナライゼーションということが、人間の行動と思惟の自主的な統一をどんなに麻痺させてゆくものかということがおそろしいほどよく分ります。キャナライゼーションが「全人格を分解する作用をもっていて」「自分では自分で判断していると思っているのだけれ・・・ 宮本百合子 「アメリカ文化の問題」
・・・「率直にいって麻痺していますからね、どの点からも――。想像もしていないでしょう」「しかたがないというわけかしら」 某氏は苦痛な眼つきでしばらく沈黙していた。「――どうも。だいたい、自分に関係のあることだと感じていないんだから・・・ 宮本百合子 「ある回想から」
・・・芸術的良心を痲痺させてしまって出版業者に動員されて、てんから恥ない所がありはすまいか、出版当事者美術家ともに大いに良心を覚醒させる要があろう。 次にさしずめ世界文化年表とでも称する年表が欲しい。広い文化の分野でせまい分科的にではあるかも・・・ 宮本百合子 「業者と美術家の覚醒を促す」
・・・勤務する大多数の男女は激しく長い時間の労働によって疲れ、恐らく想像しているより遙かにつよい程度で色彩の感覚を麻痺されているのであろうが、プロレタリア美術のために努力している画家たちははたしてどのくらいまでそれを実感として把握しているであろう・・・ 宮本百合子 「芸術が必要とする科学」
・・・たちが結論した結論をこの作品の中に知ろうとして、もし現代の若い人々がこの小説にひかれなければならないとしたら、彼等の青春の精神の鋭さと誇りとは、今日の日本の社会生活のなかで、どのように不具にさせられ、麻痺させられているというのだろう。・・・ 宮本百合子 「「結婚の生態」」
・・・譬えばこれまで自由に動かすことの出来た手足が、ふいと動かなくなったような感じである。麻痺の感じである。麻痺は一部分の死である。死の息が始めてフランツの項に触れたのである。フランツは麻のようなブロンドな髪が一本一本逆に竪つような心持がして、何・・・ 森鴎外 「木精」
出典:青空文庫