・・・悦気面に満ちて四百五百と入り揚げたトドの詰りを秋子は見届けしからば御免と山水と申す長者のもとへ一応の照会もなく引き取られしより俊雄は瓦斯を離れた風船乗り天を仰いで吹っかける冷酒五臓六腑へ浸み渡りたり それつらつらいろは四十七文字を按ずる・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・新涼の秋気はすでに二階の部屋にも満ちて来た。この一夏の間、わたしは例年の三分の一に当るほども自分の仕事をなし得ず、せめて煩わなかっただけでもありがたいと思えと人に言われて、僅かに慰めるほどの日を送って来たが、花はその間に二日休んだだけで、垣・・・ 島崎藤村 「秋草」
北の国も真夏のころは花よめのようなよそおいをこらして、大地は喜びに満ち、小川は走り、牧場の花はまっすぐに延び、小鳥は歌いさえずります。その時一羽の鳩が森のおくから飛んで来て、寝ついたなりで日をくらす九十に余るおばあさんの家・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:有島武郎 「真夏の夢」
・・・丁度向うで女学生の頸の創から血が流れて出るように、胸に満ちていた喜が逃げてしまうのである。「これで敵を討った」と思って、物に追われて途方に暮れた獣のように、夢中で草原を駆けた時の喜は、いつか消えてしまって、自分の上を吹いて通る、これまで覚え・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・ 先日、未知の詩人から手紙をもらった。その人も明治四十二年六月十九日の生れの由である。これを縁に、一夜、呑まないか、という手紙であった。私は返事を出した。「僕は、つまらない男であるから、逢えばきっとがっかりなさるでしょう。どうも、こわい・・・ 太宰治 「六月十九日」
・・・この剽軽な、しかし要を得た説明は子供の頭に眠っている未知の代数学を呼び覚ますには充分であった。それから色々の代数の問題はひとりで楽に解けるようになった。始めて、幾何学のピタゴラスの定理に打つかった時にはそれでも三週間頭をひねったが、おしまい・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・しかしその未知の扉にぶつかってこれを開く人があるとすれば、その人はやはり案内者などのやっかいにならない風来の田舎者でなければならない。第三の扉の事はいかに権威ある案内記にも誌してないのである。 思うにうっかり案内者などになるのは考え・・・ 寺田寅彦 「案内者」
・・・とか「歓喜に満ちて」とか、そんな漠然とした言葉を使ってもいいかもしれない。しかしいよいよ撮影を実行する前にはこれでは全く役に立たない。「貧しさ」を「映画の言葉」すなわち、これに相当する視覚的な影像に翻訳しなければならない。たとえば極貧を現わ・・・ 寺田寅彦 「映画芸術」
・・・最後に愉快なルンペン、ルイとエミールが向かって行く手の道路の並行直線のパースペクチヴが未知なる未来への橋となって銀幕の奥へ消えて行くのである。 音響効果としていろいろなモチーフが繰り返される。たとえば刑務所と工場の仕事場では音楽に交じる・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・子供が将来何者になるかは未知の事に属する。これを憂慮すれば子供はつくらぬに若くはない。 わたくしは既に中年のころから子供のない事を一生涯の幸福と信じていたが、老後に及んでますますこの感を深くしつつある。これは戯語でもなく諷刺でもない。窃・・・ 永井荷風 「西瓜」
出典:青空文庫