・・・山へ登るのも極くいいことであります。深山に入り、高山、嶮山なんぞへ登るということになると、一種の神秘的な興味も多いことです。その代りまた危険も生じます訳で、怖しい話が伝えられております。海もまた同じことです。今お話し致そうというのは海の話で・・・ 幸田露伴 「幻談」
・・・これより神の御山なりと思う心に、日の光だに漏らぬ樹蔭の涼しささえ打添わりて、おのずから身も引きしまるようにおぼゆ。山は麓より巓まで、ひた上り五十二町にして、一町ごとに町数を勒せる標石あり。路はすべて杉の立樹の蔭につき、繞りめぐりて上りはすれ・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・君、古代のにおいがするじゃないか。深山の巒気が立ちのぼるようだ。ランキのランは、言うという字に糸を二つに山だ。深山の精気といってもいいだろう。おどろくべきものだ。ううむ。」やたらに唸るのである。私は恥ずかしくてたまらない。「山椒魚がお気・・・ 太宰治 「黄村先生言行録」
・・・人生の冷酷な悪戯を、奇蹟の可能を、峻厳な復讐の実現を、深山の精気のように、きびしく肌に感じたのだ。しどろもどろになり、声まで嗄れて、「よく来たねえ。」まるで意味ないことを呟いた。絶えず訪問客になやまされている人の、これが、口癖になってい・・・ 太宰治 「花燭」
・・・私、深山のお花畑、初雪の富士の霊峰。白砂に這い、ひろがれる千本松原、または紅葉に見えかくれする清姫滝、そのような絵はがきよりも浅草仲店の絵はがきを好むのだ。人ごみ。喧噪。他生の縁あってここに集い、折も折、写真にうつされ、背負って生れた宿命に・・・ 太宰治 「もの思う葦」
・・・こうした工事が天然の風致を破壊するといって慨嘆する人もあるようであるが自分などは必ずしもそうとばかりは思わない。深山幽谷の中に置かれた発電所は、われわれの眼にはやはりその環境にぴったりはまってザハリッヒな美しさを見せている。例えば悪趣味で人・・・ 寺田寅彦 「雨の上高地」
・・・何処の深山から出て何処の幽谷に消え去るとも知れぬこの破壊の神は、あたかもその主宰者たる「時」の仕事をもどかしがっているかのように、あらゆるものを乾枯させ粉砕せんとあせっている。 火鉢には一塊の炭が燃え尽して、柔らかい白い灰は上の藁灰の圧・・・ 寺田寅彦 「凩」
・・・測量部員が真に人跡未到と思われる深山を歩いていたらさび朽ちた一本の錫杖を見つけたという話もあるそうである。 地形測量の基礎になるだいじな作業はいわゆる一等三角測量である。いわゆる基線が土台になって、その上にいわゆる一等三角点網を組み立て・・・ 寺田寅彦 「地図をながめて」
・・・時にこう、精進料理じゃ、あした、御山へ登れそうもないな」「また御馳走を食いたがる」「食いたがるって、これじゃ営養不良になるばかりだ」「なにこれほど御馳走があればたくさんだ。――湯葉に、椎茸に、芋に、豆腐、いろいろあるじゃないか」・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・孤独癖ということは、一般的には東洋人の気質であるかも知れないのだ。深山の中に唯一人で住んでる仙人なんていうものは、おそらく西洋人の知らない東洋の理念であろう。とにかく僕は、無用のおしゃべりをすることが嫌いなので、成るべく人との交際を避け、独・・・ 萩原朔太郎 「僕の孤独癖について」
出典:青空文庫