・・・ 彼れはむしゃくしゃしながら馬力を引ぱって小屋の方に帰って行った。だらしなく降りつづける雨に草木も土もふやけ切って、空までがぽとりと地面の上に落ちて来そうにだらけていた。面白くない勝負をして焦立った仁右衛門の腹の中とは全く裏合せな煮え切・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・省作は眠そうな目をむしゃくしゃさせながら、ひょこと頭を上げたがまたぐたり枕へつけてしまった。目はさめていると姉に思わせるために、頭を枕につけていながらも、口のうちでぐどぐどいうている。 下部屋の戸ががらり勢いよくあく音がして、まもなく庭・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・ 薬罐のくらくら煮立っているのが、吉弥のむしゃくしゃしているらしい胸の中をすッかり譬えているように、僕の妻には見えた。 大きな台どころに大きな炉――くべた焚木は燃えていても、風通しのいいので、暑さはおぼえさせなかった。「けちな野・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・余程肚の中がむしゃくしゃして居て、悪気が噴出したがっていたのであろう。 叱咤したとて雪は脱れはしない、益々固くなって歯の間に居しこるばかりだった。そこで、ふと見ると小溝の上に小さな板橋とおぼしいのが渡っているのが見えたので、其板橋の堅さ・・・ 幸田露伴 「雪たたき」
・・・こんな失礼なことを申して、恥ずかしくむしゃくしゃいたします。字が汚くて、くるしゅう存じます。一生の大事でございます。ぜひとも御相談いたしたく、ほかにたのむ身寄りもございませぬゆえ、厚かましいとは存じながら、お願い。 坂井新介様。とみ。・・・ 太宰治 「花燭」
・・・ ぼんやり下婢の様を見ているうちに、むしゃくしゃして来た。「何をしているのだ。」うす汚い気さえしたのである。 女の子は、ふっと顔を挙げた。真蒼である。頬のあたりが異様な緊張で、ひきつってゆがんでいた。醜い顔ではなかったが、それで・・・ 太宰治 「古典風」
・・・逆立ちしたってなしえなかったところのものなのであったが、盆地特有の酷暑で、少しへんになっていた矢先であったし、また、毎日、何もせず、ただぽかんと家主からの速達を待っていて、死ぬほど退屈な日々を送って、むしゃくしゃいらいら、おまけに不眠も手伝・・・ 太宰治 「畜犬談」
・・・私は、二十円とられたのが、なんとしても、いまいましく、むしゃくしゃして、口から出まかせ、さんざ威張りちらして、私の夢を、謂わば、私の小説の筋書を、勝手に申述べているだけなのである。まさしく、負けた犬、吠えるの類にちがいなかった。「僕は、まだ・・・ 太宰治 「春の盗賊」
・・・あなたが勝手に責任感じて、そうして、むしゃくしゃして、お苦しくて、こんどは誰か、遠いところに居る人に、その責任、肩がわりさせて、自身すずしい顔したいお心なのよ。そうなのよ。」言いながら、それでも気弱く、高須の片手をそっと握って、顔色をうかが・・・ 太宰治 「火の鳥」
・・・ クねずみはあんまり猫の子供らがかしこいので、すっかりむしゃくしゃして、また早口に言いました。そうでしょう。クねずみはいちばんはじめの一に一をたして二をおぼえるのに半年かかったのです。「一に二をかけると二です。」「そうともさ。」・・・ 宮沢賢治 「クねずみ」
出典:青空文庫