・・・ ここにおいて、精神界と物質界とを問わず、若き生命の活火を胸に燃した無数の風雲児は、相率いて無人の境に入り、我みずからの新らしき歴史を我みずからの力によって建設せんとする。植民的精神と新開地的趣味とは、かくて驚くべき勢力を人生に植えつけ・・・ 石川啄木 「初めて見たる小樽」
・・・が、この荒寺、思いのほか、陰寂な無人の僻地で――頼もう――を我が耳で聞返したほどであったから。……私の隣の松さんは、熊野へ参ると、髪結うて、熊野の道で日が暮れて、あと見りゃ怖しい、先見りゃこわい。先の河原で宿取ろか、跡の・・・ 泉鏡花 「燈明之巻」
・・・その小字に長者屋敷と云うは、全く無人の境なり。茲に行きて炭を焼く者ありき。或夜その小屋の垂菰をかかげて、内を覗う者を見たり。髪を長く二つに分けて垂れたる女なり。このあたりにても深夜に女の叫声を聞くことは、珍しからず。佐々木氏の祖父の弟、・・・ 泉鏡花 「遠野の奇聞」
・・・ 運良く未だ手をつけていなかった無尽や保険の金が千円ばかりあった。掛けては置くものだと、それをもって世間狭い大阪をあとに、ともあれ東京へ行く、その途中、熱海で瞳は妊娠していると打ち明けた。あんたの子だと言われるまでもなく、文句なしにその・・・ 織田作之助 「雪の夜」
・・・かくて彼が心は人々の知らぬ間に亡び、人々は彼と朝日照り炊煙棚引き親子あり夫婦あり兄弟あり朋友あり涙ある世界に同居せりと思える間、彼はいつしか無人の島にその淋しき巣を移しここにその心を葬りたり。 彼に物与えても礼言わずなりぬ。笑わずなりぬ・・・ 国木田独歩 「源おじ」
・・・ 彼は無人の地にいて、我を忘れ世界を忘れ、身も魂も、今そのなしつつある仕事に打ちこんでいる。僕は桂の容貌、かくまでにまじめなるを見たことがない。見ているうちに、僕は一種の壮厳に打たれた。 諸君! どうか僕の友のために、杯をあげてくれたま・・・ 国木田独歩 「非凡なる凡人」
・・・に上りきれば、そこが甲州武州の境で、それから東北へと走っている嶺を伝わって下って行けば、ついには一つの流に会う、その流に沿うて行けば大滝村、それまでは六里余り無人の地だが、それからは盲目でも行かれる楽な道だそうだ、何でも峠さえ越してしまえば・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・ 阿波の六郎澄元は与一の方から何らかの使者を受取ったのであろう、悠然として上洛した。無人では叶わぬところだから、六郎の父の讃岐守は、六郎に三好筑前守之長と高畠与三の二人を付随わせた。二人はいずれも武勇の士であった。 与二は政元の下で・・・ 幸田露伴 「魔法修行者」
・・・したものであって、放課後、余人ひとりいないガランとした校舎、たそがれ、薄暗い音楽教室で、男の教師と、それから主人公のかなしく美しい女のひとと、ふたりきりひそひそ世の中の話を語っているのであるが、秋風が無人の廊下をささと吹き過ぎて、いずこか遠・・・ 太宰治 「音に就いて」
・・・ 部屋の壁には、無尽会社の宣伝ポスター、たった一枚、他にはどこを見ても装飾らしいものがない。カーテンさえ無い。これが、二十五、六の娘の部屋か。小さい電球が一つ暗くともって、ただ荒涼。怪力 「あそびに来たのだけどね、」と田・・・ 太宰治 「グッド・バイ」
出典:青空文庫