・・・「大分蒸すようになりましたね。」「お嬢さんはいかがですか? 御病気のように聞きましたが、……」「難有う。やっと昨日退院しました。」 粟野さんの前に出た保吉は別人のように慇懃である。これは少しも虚礼ではない。彼は粟野さんの語学・・・ 芥川竜之介 「十円札」
・・・小屋の中は人いきれで蒸すように暑かった。笠井の禿上った額からは汗の玉がたらたらと流れ出た。それが仁右衛門には尊くさえ見えた。小半時赤坊の腹を撫で廻わすと、笠井はまた古鞄の中から紙包を出して押いただいた。そして口に手拭を喰わえてそれを開くと、・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・まったく、いやに蒸すことね。その癖、乾き切ってさ。」 とついと立って、「五月雨の……と心持でも濡れましょう。池の菰に水まして、いずれが、あやめ杜若、さだかにそれと、よし原に、ほど遠からぬ水神へ……」 扇子をつかって、トントンと向・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・といって、目を剥いて、脳天から振下ったような、紅い舌をぺろりと出したのを見て、織次は悚然として、雲の蒸す月の下を家へ遁帰った事がある。 人間ではあるまい。鳥か、獣か、それともやっぱり土蜘蛛の類かと、訪ねると、……その頃六十ばかりだった織・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・ 青梅もまだ苦い頃、やがて、李でも色づかぬ中は、実際苺と聞けば、小蕪のように干乾びた青い葉を束ねて売る、黄色な実だ、と思っている、こうした雪国では、蒼空の下に、白い日で暖く蒸す茱萸の実の、枝も撓々な処など、大人さえ、火の燃ゆるがごとく目・・・ 泉鏡花 「朱日記」
・・・ 風吹けば倒れ、雨露に朽ちて、卒堵婆は絶えてあらざれど、傾きたるまま苔蒸すままに、共有地の墓いまなお残りて、松の蔭の処々に数多く、春夏冬は人もこそ訪わね、盂蘭盆にはさすがに詣で来る縁者もあるを、いやが上に荒れ果てさして、霊地の跡を空しゅ・・・ 泉鏡花 「清心庵」
・・・石畳で穿下した合目には、このあたりに産する何とかいう蟹、甲良が黄色で、足の赤い、小さなのが数限なく群って動いて居る。毎朝この水で顔を洗う、一杯頭から浴びようとしたけれども、あんな蟹は、夜中に何をするか分らぬと思ってやめた。 門を出ると、・・・ 泉鏡花 「星あかり」
・・・「余所のは米の粉を練ってそれを程よく笹に包むのだけれど、是は米を直ぐに笹に包んで蒸すのだから、笹をとるとこんな風に、東京のお萩と云ったようだよ」「ウム面白いな、こりゃうまい。粽という名からして僕は好きなのだ、食って美味いと云うより、・・・ 伊藤左千夫 「浜菊」
・・・ほかにわずかに鳥毛を産するファロー島があります。またやや富饒なる西インド中のサンクロア、サントーマス、サンユーアンの三島があります。これ確かに富の源でありますが、しかし経済上収支相償うこと尠きがゆえに、かつてはこれを米国に売却せんとの計画も・・・ 内村鑑三 「デンマルク国の話」
・・・ 蒸すように暑い部屋の天井には電扇がゆるやかに眠そうに回っていた。窓越しに見えるエスカレーターには、下から下からといろいろの人形がせり上がっては天井のほうに消えて行った。ところてんを突くように人の行列が押し送られて行った。 気のつい・・・ 寺田寅彦 「試験管」
出典:青空文庫