・・・いえね、何も忠義だてをするんじゃないが、御新造様があんまりだからツイ私だってむっとしたわね。行がかりだもの、お前さん、この様子じゃあ皆こりゃアノ児のせいだ。小児の癖にいきすぎな、いつのまにませたろう、取っつかまえてあやまらせてやろう。私なら・・・ 泉鏡花 「清心庵」
・・・ 宗吉はそう断念めて、洋傘の雫を切って、軽く黒の外套の脇に挟みながら、薄い皮の手袋をスッと手首へ扱いて、割合に透いて見える、なぜか、硝子囲の温室のような気のする、雨気と人の香の、むっと籠った待合の裡へ、コツコツと――やはり泥になった――・・・ 泉鏡花 「売色鴨南蛮」
・・・ 勃然とした体で、島田の上で、握拳の両手を、一度打擲をするごとくふって見せて、むっとして男が行くので、はあはあ膝を摺らし、腰を引いて、背には波を打たしながら、身を蜿らせて、やっと立って、女は褄を引合せざまに振向くと、ちょっと小腰を屈めな・・・ 泉鏡花 「みさごの鮨」
・・・父もようやく娘の顔色に気づいて、むっとした調子に声を強め、「異存がなけらきめてしまうど。今日じゅうに挨拶と思うたが、それも何かと思うて明日じゅうに返辞をするはずにした。お前も異存のあるはずがないじゃねいか、向うは判りきってる人だもの」・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・そして並んで四ツ橋を渡り、文楽座の表まで来ると、それまでむっと黙っていた彼女は、疳高い早口の声で、「こんど店へ来はったら、一ぺん一緒に寝まひょな」とぐんと肩を押しながら赧い顔もせずに言った。心斎橋筋まで来て別れたが、器用に人ごみの中をか・・・ 織田作之助 「世相」
・・・ 小沢はむっとした。が、声は柔く……というより、むしろ情けない調子で、「昨日復員したばかしで、実はその荷物なんです。毛布は麻繩を掛けたやつですから、見ればすぐ……あ、そうだ、名前もついている筈です。小沢十吉です」「なんや、復員の・・・ 織田作之助 「夜光虫」
・・・一枚多いというのを、むっとした顔で、「チップや」 それで、その夜の収入はすっかり消えてしまった。「そんなら、いずれまた」 もう一度松本に挨拶し、それからそこのお内儀に、「えらいおやかまっさんでした。済んまへん」 と悲・・・ 織田作之助 「雪の夜」
・・・そして硝子窓をあけて、むっとするようにこもった宵の空気を涼しい夜気と換えた。彼はじっと坐ったまま崖の方を見ていた。崖の路は暗くてただ一つ電柱についている燈がそのありかを示しているに過ぎなかった。そこを眺めながら、彼は今夜カフェで話し合った青・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・ お源は負けぬ気性だから、これにはむっとしたが、大庭家に於けるお徳の勢力を知っているから、逆らっては損と虫を圧えて「まアそれで勘弁しておくれよ。出入りするものは重に私ばかりだから私さえ開閉に気を附けりゃア大丈夫だよ。どうせ本式の盗棒・・・ 国木田独歩 「竹の木戸」
・・・彼は、自分に口返事ばかりして、拍車を錆びさしたりしたことを思い出して、むっとした。「不軍紀な! 何て不軍紀な!」 彼は腹立たしげに怒鳴った。それが、急に調子の変った激しい声だったので、イワンは自分に何か云われたのかと思って、はっとし・・・ 黒島伝治 「橇」
出典:青空文庫