・・・一言にして云えばこの涙は、人間苦の黄昏のおぼろめく中に、人間愛の燈火をつつましやかにともしてくれる。ああ、東京の町の音も全くどこかへ消えてしまう真夜中、涙に濡れた眼を挙げながら、うす暗い十燭の電燈の下に、たった一人逗子の海風とコルドヴァの杏・・・ 芥川竜之介 「葱」
・・・軍めく二人の嫁や花あやめ また、安永中の続奥の細道には――故将堂女体、甲冑を帯したる姿、いと珍し、古き像にて、彩色の剥げて、下地なる胡粉の白く見えたるは、卯の花や縅し毛ゆらり女武者 としるせりとぞ。この両様と・・・ 泉鏡花 「一景話題」
・・・ 私はドキリとして、おかしく時めくように胸が躍った。九段第一、否、皇国一の見世物小屋へ入った、その過般の時のように。 しかし、細目に開けた、大革鞄の、それも、わずかに口許ばかりで、彼が取出したのは一冊赤表紙の旅行案内。五十三次、木曾・・・ 泉鏡花 「革鞄の怪」
・・・桃、栗、柿、大得意で、烏や鳶は、むしゃむしゃと裂いて鱠だし、蝸牛虫やなめくじは刺身に扱う。春は若草、薺、茅花、つくつくしのお精進……蕪を噛る。牛蒡、人参は縦に啣える。 この、秋はまたいつも、食通大得意、というものは、木の実時なり、実り頃・・・ 泉鏡花 「茸の舞姫」
・・・…… 八 台所と、この上框とを隔ての板戸に、地方の習慣で、蘆の簾の掛ったのが、破れる、断れる、その上、手の届かぬ何年かの煤がたまって、相馬内裏の古御所めく。 その蔭に、遠い灯のちらりとするのを背後にして、お納・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・小間物店の若い娘が、毛糸の手袋嵌めたのも、寒さを凌ぐとは見えないで、広告めくのが可憐らしい。 気取ったのは、一軒、古道具の主人、山高帽。売っても可いそうな肱掛椅子に反身の頬杖。がらくた壇上に張交ぜの二枚屏風、ずんどの銅の花瓶に、からびた・・・ 泉鏡花 「露肆」
・・・大抵は悪紙に描きなぐった泥画であるゆえ、田舎のお大尽や成金やお大名の座敷の床の間を飾るには不向きであるが、悪紙悪墨の中に燦めく奔放無礙の稀有の健腕が金屏風や錦襴表装のピカピカ光った画を睥睨威圧するは、丁度墨染の麻の衣の禅匠が役者のような緋の・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・なるを 蕩郎枉げて贈る同心の結 嬌客俄に怨首讎となる 刀下冤を呑んで空しく死を待つ 獄中の計愁を消すべき無し 法場若し諸人の救ひを欠かば 争でか威名八州を振ふを得ん 沼藺残燈影裡刀光閃めく 修羅闘一場を現出す 死後の座は金き・・・ 内田魯庵 「八犬伝談余」
・・・ 真理は、主観の結晶である、あきらめ、惑わざる瞳の中の色に、閃めく寂しい光りである。――私は、無意味の時間と、労働とを悪む。而して、考え、感じ、味わんがための怠惰と休息を好み、あきらめ醒めたるものゝ自殺を喜ぶ。 日は暮れた。夕暮の一・・・ 小川未明 「夕暮の窓より」
・・・ 言いかけて、お君を犯したことをふと想いだし、何か矛盾めくことを言うようだったから、簡単な訓戒に止めることにした。 軽部はお君と結婚したことを後悔した。しかし、お君が翌年の三月男の子を産むと、日を繰ってみて、ひやっとし、結婚してよか・・・ 織田作之助 「雨」
出典:青空文庫