・・・令息武矩はいかなる家族の手落からか、猛火の中の二階に残され、すでに灰燼となろうとしたところを、一匹の黒犬のために啣え出された。市長は今後名古屋市に限り、野犬撲殺を禁ずると云っている。 読売新聞。小田原町城内公園に連日の人気を集めていた宮・・・ 芥川竜之介 「白」
・・・「いやいや、仏法の貴賤を分たぬのはたとえば猛火の大小好悪を焼き尽してしまうのと変りはない。……」 それから、――それから如来の偈を説いたことは経文に書いてある通りである。 半月ばかりたった後、祇園精舎に参った給孤独長者は竹や芭蕉・・・ 芥川竜之介 「尼提」
・・・ 同時に、一方では、あのおそろしい猛火と混乱との中で、しまいまで、おちついて機敏に手をつくし、または命をまでもなげ出して、多くの人々をすくい上げた、いろいろの人々のとうといはたらきをも忘れてはなりません。たとえば、これまで深川の貧民たち・・・ 鈴木三重吉 「大震火災記」
・・・「島山鳴動して猛火は炎々と右の火穴より噴き出だし火石を天空に吹きあげ、息をだにつく隙間もなく火石は島中へ降りそそぎ申し候。大石の雨も降りしきるなり。大なる石は虚空より唸りの風音をたて隕石のごとく速かに落下し来り直ちに男女を打ちひしぎ・・・ 太宰治 「『井伏鱒二選集』後記」
・・・自分のような身も心も弱い人間は、孟夏を迎うる強烈な自然の力に圧服されてひとりでにこんな心持になるのかと考えた事もある。こんな厭な時候に、ただ一つ嬉しいのは、心ゆくばかり降る雨の夕を、風呂に行く事である。泥濘のひどい道に古靴を引きずって役所か・・・ 寺田寅彦 「やもり物語」
・・・ 母親がお嫁に来るとき持って来た小さい黒い机がうちに一つある。子供の多いやりくり最中の家庭だから、母親が自分でその机の前に坐ってる時なんかまるでない。いつも室の隅っこに放り出してある。 真岡浴衣に兵児帯姿の自分は、こっそりその机をか・・・ 宮本百合子 「「処女作」より前の処女作」
出典:青空文庫