・・・と声を掛けると、紳士は帽子に手を掛けつつ、「森ですが、君は?」「内田です、」というと、「そうか、」と立ちながら足を叩いて頽れるように笑った。「宜かった、宜かった、最少し遅れようもんなら復た怒られる処だった。さあ、来給え、」と先きへ立・・・ 内田魯庵 「鴎外博士の追憶」
・・・しかして高尚なる勇ましい生涯とは何であるかというと、私がここで申すまでもなく、諸君もわれわれも前から承知している生涯であります。すなわちこの世の中はこれはけっして悪魔が支配する世の中にあらずして、神が支配する世の中であるということを信ずるこ・・・ 内村鑑三 「後世への最大遺物」
・・・それは明日午前十時に、下に書き記してある停車場へ拳銃御持参で、おいで下されたいと申す事です。この要求を致しますのに、わたくしの方で対等以上の利益を有しているとは申されますまい。わたくしも立会人を連れて参りませんから、あなたもお連にならないよ・・・ 著:オイレンベルクヘルベルト 訳:森鴎外 「女の決闘」
・・・ 二郎は、また、砂山の下を、顔まで半分隠れそうに、帽子を目深にかぶって、洋服を着た人が、歩いているのを見ました。 そして、しばらくすると、赤い船の姿はうすれ、洋服を着た人の姿もうすれてしまいました。 二郎は、まるで夢を見ているよ・・・ 小川未明 「赤い船のお客」
・・・「それで何でございましょうか、先生のお見立て通りでございましたら……あの、尿毒性とやら申すのでございましたら……」とお光はもうオロオロしている。「尿毒性であると、よほどこれは危険で……お上さん、私は気安めを言うのはかえって不深切と思・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・「強情ね、いったい何の用」「用はない言うてまんがな。分らん人やな」 大阪弁が出たので、紀代子はちらと微笑し、「用がないのに踉けるのん不良やわ。もう踉けんときでね。学校どこ?」「帽子見れば分りまっしゃろ」「あんたとこの・・・ 織田作之助 「雨」
・・・横井は斯う云って、つくばったまゝ腰へ手を廻して剣の柄を引寄せて見せ、「見給え、巡査のとは違うじゃないか。帽子の徽章にしたって僕等のは金モールになってるからね……ハヽ、この剣を見よ! と云いたい処さ」横井は斯う云って、再び得意そうに広い肩・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・ 最後の拍手とともに人びとが外套と帽子を持って席を立ちはじめる会の終わりを、私は病気のような寂寥感で人びとの肩に伍して出口の方へ動いて行った。出口の近くで太い首を持った背広服の肩が私の前へ立った。私はそれが音楽好きで名高い侯爵だというこ・・・ 梶井基次郎 「器楽的幻覚」
・・・それが調停者に就て云われている言葉であることは申すまでもありません。 私の心はなんだかびりりとしました。知るということと行うということとに何ら距りをつけないと云った生活態度の強さが私を圧迫したのです。単にそればかりではありません。私は心・・・ 梶井基次郎 「橡の花」
・・・ これは私の親戚のもので、東条綱雄と申すものです。と善平に紹介されたる辰弥は、例の隔てなき挨拶をせしが、心の中は穏やかならず。この蒼白き、仔細らしき、あやしき男はそもそも何者ぞ。光代の振舞いのなお心得ぬ。あるいは、とばかり疑いしが、色に・・・ 川上眉山 「書記官」
出典:青空文庫