・・・王の有様は少しも苦しそうに見えぬ。若し余も死なねばならぬならば、斯ういう工合にしたら窮屈で無くすむであろうと思うた事がある。併し幾ら斯んなにして見た所が棺の蓋を蔽てコンコンと釘を打ってしまったら、それでおしまいである。棺の中で生きかえって手・・・ 正岡子規 「死後」
・・・実は私はその日までもし溺れる生徒ができたら、こっちはとても助けることもできないし、ただ飛び込んでいって一緒に溺れてやろう、死ぬことの向う側まで一緒についていってやろうと思っていただけでした。全く私たちにはそのイギリス海岸の夏の一刻がそんなに・・・ 宮沢賢治 「イギリス海岸」
・・・「私は饑饉でみんなが死ぬとき若し私の足が無くなることで饑饉がやむなら足を切っても口惜しくありません。」 アラムハラドはあぶなく泪をながしそうになりました。「そうだ。おまえには歩くことよりも物を言うことよりももっとしないでいられな・・・ 宮沢賢治 「学者アラムハラドの見た着物」
・・・文句はあれで結構、身ぶりもあれで結構、おふみの舞台面もあれでよいとして、もしその間におふみと芳太郎とが万歳をやりながら互に互の眼を見合わせるその眼、一刹那の情感ある真面目ささえもっと内容的に雄弁につかまれ活かされたら、どんなに監督溝口が全篇・・・ 宮本百合子 「「愛怨峡」における映画的表現の問題」
・・・昨夜、Y、気をもんで、若し午前二時に着くのならホテルへ部屋がいる。ウラジヴォストクの某氏へ電報打とうと云って、頼信紙に書きまでしたが、大抵五時だろうと云う車掌の言葉に電報は中止した。 ――明日どうせせわしいんだから、ちゃんと今日荷物しと・・・ 宮本百合子 「新しきシベリアを横切る」
・・・それでも万一と申すことがござりまする。もしものことがござりましたら、どうぞ長十郎奴にお供を仰せつけられますように」 こう言いながら長十郎は忠利の足をそっと持ち上げて、自分の額に押し当てて戴いた。目には涙が一ぱい浮かんでいた。「それは・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・それは人間の力の及ばぬ事ではあるまいか。若しそうだと、その洗立をするのが、世間の無頓著よりは危険ではあるまいか。倅もその危険な事に頭を衝っ込んでいるのではあるまいか。倅は専門の学問をしているうちに、ふとそう云う問題に触れて、自分も不安になっ・・・ 森鴎外 「かのように」
・・・さてもあのまま鎌倉までもしは追うて出で行いたか。いかに武芸をひとわたりは心得たとて……この血腥い世の中に……ただの女の一人身で……ただの少女の一人身で……夜をもいとわず一人身で……」 思えば憎いようで、可哀そうなようで、また悲しいようで・・・ 山田美妙 「武蔵野」
・・・とどの詰りはそれより無く、もし有ったところで、それは物があるということだけかも知れぬ。人人の認識というものはただ見たことだけだ。雑念はすべて誤りという不可思議な中で、しきりに人は思わねばならぬ。思いを殺し、腰蓑の鋭さに水滴を弾いて、夢、まぼ・・・ 横光利一 「鵜飼」
・・・男は響の好い、節奏のはっきりしたデネマルク語で、もし靴が一足間違ってはいないかと問うた。 果して己は間違った靴を一足受け取っていた。男は自分の過を謝した。 その時己はこの男の名を問うたが、なぜそんな事をしたのだか分からない。多分体格・・・ 著:ランドハンス 訳:森鴎外 「冬の王」
出典:青空文庫