・・・勿論もう震災の頃には大勢の子もちになっているのですよ。ええと、――年児に双児を生んだものですから、四人の子もちになっているのですよ。おまけにまた夫はいつのまにか大酒飲みになっているのですよ。それでも豚のように肥った妙子はほんとうに彼女と愛し・・・ 芥川竜之介 「或恋愛小説」
・・・僕等は二人ともこの少女にどうも好意を持ち悪かった。もう一人の少女にも、――Mはもう一人の少女には比較的興味を感じていた。のみならず「君は『ジンゲジ』にしろよ。僕はあいつにするから」などと都合の好いことを主張していた。「そこを彼女のために・・・ 芥川竜之介 「海のほとり」
・・・さっきから見ると、往来へ落ちる物の影が、心もち長くなった。その長い影をひきながら、頭に桶をのせた物売りの女が二人、簾の目を横に、通りすぎる。一人は手に宿への土産らしい桜の枝を持っていた。「今、西の市で、績麻のみせを出している女なぞもそう・・・ 芥川竜之介 「運」
・・・白い歯は見せないぞという気持ちが、世故に慣れて引き締まった小さな顔に気味悪いほど動いていた。 彼にはそうした父の態度が理解できた。農場は父のものだが、開墾は全部矢部という土木業者に請負わしてあるので、早田はいわば矢部の手で入れた監督に当・・・ 有島武郎 「親子」
・・・ ポチがぼくのおもちゃをめちゃくちゃにこわしたから、ポチがきゃんきゃんというほどぶったことがあった。……それを妹にいわれたら、なんだかそれがもとでポチがいなくなったようにもなってきた。でもぼくはそう思うのはいやだった。どうしても妹が悪い・・・ 有島武郎 「火事とポチ」
・・・ 王子はしばらく考えておられましたがやがて決心のおももちで、「それではきのどくだが一つたのもう、あすこを見ろ」 と町の西の方をさしながら、「あすこにきたない一軒立ちの家があって、たった一つの窓がこっちを向いて開いている。あの・・・ 有島武郎 「燕と王子」
・・・これじつに今日比較的教養あるほとんどすべての青年が国家と他人たる境遇においてもちうる愛国心の全体ではないか。そうしてこの結論は、特に実業界などに志す一部の青年の間には、さらにいっそう明晰になっている。曰く、「国家は帝国主義でもって日に増し強・・・ 石川啄木 「時代閉塞の現状」
・・・本尊だに右の如くなれば、この小堂の破損はいう迄もなし、ようように縁にあがり見るに、内に仏とてもなく、唯婦人の甲冑して長刀を持ちたる木像二つを安置せり。 これ、佐藤継信忠信兄弟の妻、二人都にて討死せしのち、その母の泣悲しむがいとしさに・・・ 泉鏡花 「一景話題」
・・・埃も起たず、雨のあとの樹立の下は、もちろん濡色が遥に通っていた。だから、偶に行逢う人も、その村の家も、ただ漂々蕩々として陰気な波に揺られて、あとへ、あとへ、漂って消えて行くから、峠の上下、並木の往来で、ゆき迎え、また立顧みる、旅人同士とは品・・・ 泉鏡花 「燈明之巻」
・・・声が一所で、同音に、もぐらもちが昇天しようと、水道の鉄管を躍り抜けそうな響きで、片側一条、夜が鳴って、哄と云う。時ならぬに、木の葉が散って、霧の海に不知火と見える灯の間を白く飛ぶ。 なごりに煎豆屋が、かッと笑う、と遠くで凄まじく犬が吠え・・・ 泉鏡花 「露肆」
出典:青空文庫