その時、私には六十三銭しか持ち合せがなかったのです。 十銭白銅六つ一銭銅貨三つ。それだけを握って、大阪から東京まで線路伝いに歩いて行こうと思ったのでした。思えば正気の沙汰ではない。が、むこう見ずはもともと私にとっては生れつきの気性・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・ それより三世、即ち彼の祖父に至る間は相当の資産をもち、商を営み農を兼ね些かの不自由もなく安楽に世を渡って来たが、彼の父新助の代となるや、時勢の変遷に遭遇し、種々の業を営んだが、事ごとに志と違い、徐々に産を失うて、一男七子が相続いで生れ・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・殺風景ななどと、男の人の使うような言葉をもちいたが、全くその写真を見たときの私の気持はそれより外に現わせない。それとも、いっそ惨めと言おうか。それを考えてくれたら、鼻の上に汗をためて――そんな陰口は利けなかった筈だ。 その写真の人は眼鏡・・・ 織田作之助 「天衣無縫」
・・・「鋤を持ち来い! まだ他に二人おる。こやつも敵ぞ!」という。「鋤は要らん、埋ちゃいかん、活て居るよ!」 と云おうとしたが、ただ便ない呻声が乾付いた唇を漏れたばかり。「やッ! こりゃ活きとるンか? イワーノフじゃ! 来い来い、・・・ 著:ガールシンフセヴォロド・ミハイロヴィチ 訳:二葉亭四迷 「四日間」
・・・そして最初に訪ねて来た時分の三百の煮え切らない、変に廻り冗く持ちかけて来る話を、幾らか馬鹿にした気持で、塀いっぱいに匐いのぼった朝顔を見い/\聴いていたのであった。所がそのうち、二度三度と来るうちに、三百の口調態度がすっかり変って来ていた。・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・……あなたは窓というものにそんな興味をお持ちになったことはありませんか。一度でも」 その青年の顔は相手の顔をじっと見詰めて返答を待っていた。「僕がそんなマニヤのことを言う以上僕にも多かれ少なかれそんな知識があると思っていいでしょう」・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・がしかしそれも、脱ぎ棄てた宿屋の褞袍がいつしか自分自身の身体をそのなかに髣髴させて来る作用とわずかもちがったことはないではないか。あの無感覚な屋根瓦や窓硝子をこうしてじっと見ていると、俺はだんだん通行人のような心になって来る。あの無感覚な外・・・ 梶井基次郎 「冬の日」
・・・得たりとばかり膝を進めて取り出し示す草案の写しを、手に持ちながら舌は軽く、三好さん、これですが、しかしこれには褒美がつきますぜ。 善平は一も二もなく、心は半ば草案に奪われて、はいはい、それはもう何なりとも。 ほかではありませぬ。とに・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・の話になると、われ知らず、青春の血潮が今ひとたびそのほおにのぼり、目もかがやき、声までがつやをもち、やさしや、涙さえ催されます。 私が来た十九の時でした、城北大学といえば今では天下を三分してその一を保つとでも言いそうな勢いで、校舎も立派・・・ 国木田独歩 「あの時分」
・・・それもそのはずで、読む手紙も読む手紙もことごとく長崎より横須賀より、または品川よりなど、初めからそんなのばかり撰んで持ち合ったのだから、一として彼らの情事に関しないものはない、ことごとく罰杯を命ずべき品物である。かれこれするうち、自分の向か・・・ 国木田独歩 「遺言」
出典:青空文庫