・・・ 貴嬢がかかる気高き兄君をもちたもうことはわれらまことに知らざりき、まして貴嬢が鎌倉の辺に遊びたもうは始めての由を聞き、われらあきれてしばしは物も得言わず眼をみはりて貴嬢を打ち守りたる、こは理あることと貴嬢もうなずきたまわん、かくにわか・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・私はいかなる卓越した才能あり、功業をとげたる人物であっても、彼がもしこの態度において情熱を持っていないならば決して尊敬の念を持ち得ないものである。その人生における職分が政治、科学、実業、芸術のいずれの方面に向かおうとも、彼の伝記が書かれると・・・ 倉田百三 「学生と教養」
・・・また彼の消息には「鏡の如く、もちひのやうな」日輪の譬喩が非常に多い。 彼の幼時の風貌を古伝記は、「容貌厳毅にして進退挺特」と書いている。利かぬ気の、がっしりした鬼童であったろう。そしてこの鬼童は幼時より学を好んだ。「予はかつしろしめ・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・なにしろ田地持ちが外米を買って露命をつながなければならないようなことはまことに「はなし」ならぬ話である。 昨年、私たちの地方では、水なしには育たない稲ばかりでなく、畑の作物も──どんな飢饉の年にも旱魃にもこれだけは大丈夫と云われる青木昆・・・ 黒島伝治 「外米と農民」
・・・背後は一帯の山つづきで、ちょうどその峰通りは西山梨との郡堺になっているほどであるから、もちろん樵夫や猟師でさえ踏み越さぬ位の仕方の無い勾配の急な地で、さて前はというと、北から南へと流れている笛吹川の低地を越してのその対岸もまた山々の連続であ・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・指に持ちにくくなった鉛筆などは必らず少し太い筆の軸へ挟んで用いて居て、而もこれを至当の事と信じて居ました。種善院様も非常に厳格な方で、而も非常に潔癖な方で、一生膝も崩さなかったというような行儀正しい方であったそうですが、観行院様もまた其通り・・・ 幸田露伴 「少年時代」
・・・おれが思っていた女があったが、ハハハハ、どうもちッと馬鹿らしいようで真面目では話せないが。」と主人は一口飲んで、「まあいいわ。これもマア、酒に酔ったこの場だけの坐興で、半分位も虚言を交ぜて談すことだと思って聞いていてくれ。ハハハハハ・・・ 幸田露伴 「太郎坊」
・・・ 持ちものをすッかり調らべられてから、係が厚い帳面を持ってきて、刑務所で預かる所持金の受取りをさせられた。捕かまる時、オレは交通費として現金を十円ほど持っていた。俺たちのように運動をしているものは、命と同じように「交通費」を大切にしてい・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・ その通りはこころもち上りになっていて、真中を川が流れていた。小さい橋が二、三間おきにいくつもかけられている。人通りが多かった。明るい電燈で、降ってくる雪片が、ハッキリ一つ一つ見えた。風がなかったので、その一つ一つが、いかにものんきに、・・・ 小林多喜二 「雪の夜」
・・・こんなにみんな大きくなって、めいめい一部屋ずつを要求するほど一人前に近い心持ちを抱くようになってみると、何かにつけて今の住居は狭苦しかった。私は二階の二部屋を次郎と三郎にあてがい(この兄弟は二人末子は階下にある茶の間の片すみで我慢させ、自分・・・ 島崎藤村 「嵐」
出典:青空文庫