・・・私の本心の一側は、たしかにこの事実に対して不満足を唱える。もっと端的にわれらの実行道徳を突き動かす力が欲しい、しかもその力は直下に心眼の底に徹するもので、同時に讃仰し羅拝するに十分な情味を有するものであって欲しい。私はこの事実をわれらの第一・・・ 島村抱月 「序に代えて人生観上の自然主義を論ず」
・・・老人は胸の詰まっているような、強情らしい声で答えた。もっと大男の出しそうな声であった。「お前さんは息張っているから行けない。つい這入って行けば好いに。」「いやだ。それに己はまだ一マルク二十ペンニヒここに持っている。実は二マルク四十ペ・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・こんどのは前のよりも、もっときらきらした、きれいな羽根でした。 ウイリイは馬から下りて、ひろおうとしました。そうすると馬がまた、「そっとしておおきなさい。それを拾うと、あとで後悔しなければなりませんよ。」と言いました。で、またそのま・・・ 鈴木三重吉 「黄金鳥」
・・・おとうさんはおかあさんよりもっと深い悲しみを持って、今は遠い外国に行っているのでした。 ミシンはすこし損じてはいますが、それでも縫い進みました。――人の心臓であったら出血のために動かなくなってしまうほどたくさん針が布をさし通して、一縫い・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:有島武郎 「真夏の夢」
・・・「伝統、ということになりますると、よほどのあやまちも、気がつかずに見逃してしまうが、問題は、微細なところに沢山あるのです。もっと自由な立場で、極く初等的な万人むきの解析概論の出ることを、切に、希望している次第であります。」めちゃめちゃである・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・正月の初めにもっと家賃の安い家を別な方面にさがして、遁げるようにして移転して行った。刑事の監視をのがれたいという腹もあった。出来るならば、この都会の群集と雑沓との中に巧みにまぎれ込んで了いたいと思った。しかしそれは矢張徒労であった。一週間と・・・ 田山花袋 「トコヨゴヨミ」
・・・ロレンツのごとき優れた老大家は疾くからこの問題に手を附けて、色々な矛盾の痛みを局部的の手術で治療しようとして骨折っている間に、この若い無名の学者はスイスの特許局の一隅にかくれて、もっともっと根本的な大手術を考えていた。病の根は電磁気や光より・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・彼女はその真実の父母の家にあれば、もっと幸福な運命を掴みえたかもしれないのであった。気の弱い彼女は、すべて古めかしい叔母の意思どおりにならせられてきた。「私の学校友だちは、みんないいところへ片づいていやはります」彼女はそんなことを考えな・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・ 彼女たちはそこからわかれている、もっと小さな野良道におりて、田甫のあいだを横ぎりながら、むこうにみえている山裾の部落へかえってゆくのであった。腰のへんまで稲の青葉にかくれながらとおざかってゆく。そして幾まがりする野良道を、もうお互いの・・・ 徳永直 「白い道」
・・・始めて引越して来たころには、近処の崖下には、茅葺屋根の家が残っていて、昼中もにわとりが鳴いていたほどであったから、鐘の音も今日よりは、もっと度々聞えていたはずである。しかしいくら思返して見ても、その時分鐘の音に耳をすませて、物思いに耽ったよ・・・ 永井荷風 「鐘の声」
出典:青空文庫