・・・そして、頭部の方からは酸敗した悪臭を放っていたし、肢部からは、癌腫の持つ特有の悪臭が放散されていた。こんな異様な臭気の中で人間の肺が耐え得るかどうか、と危ぶまれるほどであった。彼女は眼をパッチリと見開いていた。そして、その瞳は私を見ているよ・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・ 善吉は眼を丸くし、吉里を見つめたまま言葉も出でず、猪口を持つ手が戦え出した。 九「善さん、も一つ頂戴しようじゃアありませんか」と、吉里はわざとながらにッこり笑ッた。 善吉はしばらく言うところを知らなかッた。・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・一 尚お成長すれば文字を教え針持つ術を習わし、次第に進めば手紙の文句、算露盤の一通りを授けて、日常の衣服を仕立て家計の出納を帳簿に記して勘定の出来るまでは随分易きことに非ず。父母の心して教う可き所なり。又台所の世帯万端、固より女子の知る・・・ 福沢諭吉 「新女大学」
・・・あなたを夫に持つことは不可能だということが分かっていました。事によったら、あなたを夫に持ちたくは無かったかも知れません。それですからわたくしは二度目の夫を持ちましても、あなたの記念を涜したのではございません。二度目の夫を持ってからも、わたく・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・要するもの はおよそ千坪ばかりの平坦なる地面(芝生ならばなお善皮にて包みたる小球(直径二寸ばかりにして中は護謨、糸の類にて充実投者が投げたる球を打つべき木の棒(長さ四尺ばかりにして先の方やや太く手にて持つ処一尺四方ばかりの荒布にて坐蒲団のご・・・ 正岡子規 「ベースボール」
・・・ そして網はみんなかかり、黄いろな板もつるされ、虫は枝にはい上がり、ブドリたちはまた、薪作りにかかることになりました。ある朝ブドリたちが薪をつくっていましたら、にわかにぐらぐらっと地震がはじまりました。それからずうっと遠くでどーんという・・・ 宮沢賢治 「グスコーブドリの伝記」
・・・もっとも拙者も数々敵を持つ身じゃ。万一途中相果てたなれば、金子はそのままそちに遣わす。どうじゃ」「へい。それはきっとお預かりいたしまするでございます」「左様か。あいや。金子はこれにじゃ。そち自ら蓋を開いて一応改めくれい。エイヤ。はい・・・ 宮沢賢治 「とっこべとら子」
・・・ あのイーハトーヴォのすきとおった風、夏でも底に冷たさをもつ青いそら、うつくしい森で飾られたモリーオ市、郊外のぎらぎらひかる草の波。 またそのなかでいっしょになったたくさんのひとたち、ファゼーロとロザーロ、羊飼のミーロや、顔の赤いこ・・・ 宮沢賢治 「ポラーノの広場」
愛ということばは、いつから人間の社会に発生したものでしょう。愛という言葉をもつようになった時期に、人類はともかく一つの飛躍をとげたと思います。なぜなら、人間のほかの生きものは、愛の感覚によって行動しても、愛という言葉の表象・・・ 宮本百合子 「愛」
・・・人間が愛するものを持つことが出来ず、又愛するものが死んでも平気でいられるように出来ていたら、人生はうるおいのないものになるだろう。純粋にそれを味わい得ることは稀だ」その純粋に経験された場合として、愛らしい夏子と村岡と夏子の死が扱われているわ・・・ 宮本百合子 「「愛と死」」
出典:青空文庫