・・・土下座せんばかりの母親の挨拶などに対しても、父は監督に対すると同時に厳格な態度を見せて、やおら靴を脱ぎ捨てると、自分の設計で建て上げた座敷にとおって、洋服のままきちんと囲炉裡の横座にすわった。そして眼鏡をはずす間もなく、両手を顔にあてて、下・・・ 有島武郎 「親子」
・・・思えらく、源叔父今はいかん、波の音ききつつ古き春の夜のこと思いて独り炉のかたわらに丸き目ふさぎてやあらん、あるいは幸助がことのみ思いつづけてやおらんと。されど教師は知らざりき、かく想いやりし幾年の後の冬の夜は翁の墓に霙降りつつありしを。・・・ 国木田独歩 「源おじ」
・・・決して自ら弁解いたすまじく候妾がかねて想いし事今はまことと相成り候妾を恕したまえ妾をお忘れ下されたし君には値なき妾に御心ひろくもたれよ再び妾を見んことを求めたまいそ梅子』 文造は読みおわって、やおら後ろに倒れた、ちょうどなにか目に見・・・ 国木田独歩 「まぼろし」
・・・奥の院の窟の案内頼みたき由をいい入るれば、少時待ち玉えとて茶を薦めなどしつ、やおら立上りたり。何するぞと見るに、やがて頸長き槌を手にして檐近く進み寄り、とうとうとうと彼の響板を打鳴らす。禽も啼かざる山間の物静かなるが中なれば、その声谿に応え・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・がぶがぶ大コップの果汁を飲んで、やおら御意見開陳。「僕は、僕は、こう思いますねえ。」いやに、老成ぶった口調だったので、みんな苦笑した。次兄も、れいのけッという怪しい笑声を発した。末弟は、ぶうっとふくれて、「僕は、そのおじいさんは、きっと・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・しばらくして、やおら御質問。「君は、佐渡の生れかね。」「はい。」「内地へ、行って見たいと思うかね。」「いいえ。」「そうだろう。」何がそうだろうだか、自分にもわからなかった。ただ、ひどく気取っているのである。また、しばらく・・・ 太宰治 「佐渡」
・・・これは十目の見るところ、百聞、万犬の実、その夜も、かれは、きゅっと口一文字かたく結んで、腕組みのまま長考一番、やおら御異見開陳、言われるには、――おまえは、楯に両面あることを忘れてはいけません。金と銀と、二面あります。おまえは、この楯、ゴオ・・・ 太宰治 「創生記」
・・・慥かに人ありと思い極めたるランスロットは、やおら身を臥所に起して、「たぞ」といいつつ戸を半ば引く。差しつくる蝋燭の火のふき込められしが、取り直して今度は戸口に立てる乙女の方にまたたく。乙女の顔は翳せる赤き袖の影に隠れている。面映きは灯火のみ・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・そしてやおらその手を銀盤の方へ差し伸べた。盤上には数通の書簡がおとなしく待っていたのである。 ピエエルは郵便を選り分けた。そしてイソダン郵便局の消印のある一通を忙わしく選り出して別にした。しかしすぐに開けて読もうともしない。 オオビ・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
出典:青空文庫